幽覧飛行
Composer : syreler
「キミの『死』を分けてもらえないかな?」
上下逆さまの顔が、目の前にあった。
至近距離で見つめ合う。たぶん、女の子。
僕は立っている。そして、目の前の女の子も立っている。逆さまで、何事もないように僕の瞳を見つめている。青紫で丸い髪型の、毛先の一本すら垂れていない。スカートの裾も垂れることはない。
女の子の口元が歪む。妖艶な笑みが晒される。
「ボクにはさ、まだ『死』がないみたいなんだ。それでずっと彷徨っていたんだけど、そろそろこの世界にも満足してさ。だから死ぬことにした。キミも最後には1回死ぬでしょ。そのうちの、たった0.001回で良いんだ。ねえ、分けてよ」
もう一度確認する。
今度ははっきりと認識する。
その子は、逆さまで宙に浮いていた。
この世の物理法則を完全に無視して、逆さ吊りになっていた。いや、この表現は正しくない。吊るされてなどない。見えない空中に足を付けているかのように、安定していた。
第一印象、足の存在する幽霊。
「……ってあれ、固まっちゃった?」
人間、本当に不可思議な現象に出会えば、何もできずに固まってしまうものだ。僕はただただ頭を回転させ、目の前の状況に科学的な説明を与えようとした。けど、当然、無理だった。
「ねえ、無視しないでよ。ボクのこと見えているんだよね」
ぐるり、目の前の景色が180度回転した。……違う。回転したのは女の子。
足が地につくと、真逆になった遠くの景色を眺めてから、僕に顔を近付けて、
「どう? これで話しやすくなったでしょ。そんなにボクのことが怖いかな」
怖いというよりも、分からない。それは結局怖いということなのかもしれないけど。
「うーん、反応なしかあ。えぃっ」
突然、女の子が頭突きしてきた。悲鳴を上げて仰け反るが、もう遅い。思い切り目を閉じる。
……感触はなかった。目を開けると、女の子の頭が僕の身体に埋まっていた。すり抜けている。僕のお腹から、女の子の下半身が生えていた。科学的に、まずあり得ない光景だ。
「なるほどなるほど、キミの心臓、活きがいいねぇ~」
声が僕の身体を伝わり、脳幹に直接響いてくる。クセになりそうな気味の悪さ。
皮膚が老廃物を絞り出すように、僕はようやく声を出すことができた。
「……君は、僕に何がしたいの?」
「だから言ってるじゃん。キミの『死』をちょうだいよ。代わりにボクが大切に死んであげる」
怪しい雰囲気しかない。子供からみた不審者ってこんな感じなんだと思う。
……そもそも、『死』を0.いくつみたいに細かく分けることってできたんだっけ? あとそれと、『死』って知らない人に渡してもいいものなんだっけ?
誰かが教えてくれる知識ではなさそうだ。僕には分からない。
ただ、こんな超常現象、ことさら『死』に関しては、目の前の少女の方が詳しいように思う。
「……君は、誰なの? そもそも人間?」
「さあ、ボクは誰なんだろうね? ボクから見たキミも人間なの?」
「ふざけないでよ。僕は人間だよ。おかしなのは君じゃないか」
「ボクもふざけてないんだけどなあ。だってボクのこと見えるの、キミだけだよ」
あはは、と陽気に笑って、女の子は宙を舞う。
滑らかなクロソイド曲線を描いて飛び回る彼女が人間だなんて、思いたくはない。
そして、こんなにも明るく話す女の子が死にたがっているなんてのも、思いたくはない。
そして何よりも一番信じたくないのは――。
こんな女の子が街中を闊歩しているというのに、街中に変化がないことだった。
出勤するサラリーマン、準備を始める定食屋の主人。コンビニに弁当を運ぶトラック。一日の朝は、何事もなく始まっている。幽霊が視えているのは、僕だけらしい。
「……それで、君の願いは、僕の『死』をもらうことなんだっけ」
「もらうんじゃないよ。分けてもらうんだよ。君も将来死ぬんだろうけど、その死をちょっとだけボクに充てるんだ」
そこに何の違いがあるのだろう。
「断ったらどうなるの」
「今すぐキミを殺すと言ったら?」
思ったよりも状況は大変だった。つまりは命を手玉に取られてる訳なんだから。
「僕はまだ死にたくないよ。この世界に生まれてきたからには、何かしたいんだ」
「それはずいぶん漠然とした壮大な夢を持ってるんだね」
「そりゃそうだよ。僕はまだ子供なんだ。ずっと大人の言いなりだよ。早く大人になって、一人で何かがしたい。何か凄いことをやってみたい」
ちょうど、真上を飛行機が通りかかった。青空を二つに分かつ飛行機雲。機体は遠くて粒ほどにしか見えない。それでも、空を掻き分けるエンジン音は、ここにもしっかり聞こえてくる。
「……君だってまだ死んでないだろ。死ぬなんて言ってないで、やりたいことをやりなよ」
幽霊の女の子は、うーんと首を傾げた。
「そうしたいところなんだけど、ボクは何もしない。できないんだ。この世界のものには触れない。安心しなよ。キミを殺すってのもウソなんだ。『死』をくれないんだったら、ボクは別の人間を探すだけさ」
「何もできない……?」
「ボクはね、死んでもないんだけど、生きてもいないんだよね。何故かキミと話せるだけで、この世界の物質には干渉できない」
女の子は誤魔化すように笑って、スッと僕の身体に寄る。当たり前のようにすり抜けて、女の子はほらねと笑った。
たとえ意識が肉体を離れたって、自由にできる訳じゃないんだろう。やりたいことをやりたいだけできるほど、この世界は甘くない。それは幽霊でも同じらしい。
「何もできないから、死ぬの?」
「ううん、もう十分この世界を堪能したから死ぬんだよ。できることも、できないことも、ぜーんぶ堪能しちゃった。でも、どうやらこの幽体は死んでくれなくてさあ。困ってるんだよね」
死にたいと語るこの女の子の笑顔はやけに明るくて、その顔は僕の頭にこびりついて離れなさそうだった。
僕は目を逸らす。この死にたがりな幽霊の表情を直視することができなかった。僕の身体のどこか、心の奥底といえる部分が疼くのだ。
なんとなく、この子の支えになりたいという、助けになりたいという気持ちにさせられる。
もう少し、この世界に希望を持っても良いんじゃないかと思うんだ。死ぬために彷徨ってるなんて悲観的な話よりか、生きる目標を持った方が、絶対に良い。
だから、僕は決断した。
「良いよ。僕の『死』を君にあげる」
「やったー、契約成立……かな?」
「その代わり――。僕が死ぬまでの間、君のできなかったことを、代わりに僕がやるよ。僕は子供で、死ぬまで時間はあるんだ。良い暇つぶしにはなると思うよ」
これで少しは、自分の生を考えてもらえるんじゃないかと思った。
だが、女の子の反応は予想外だ。
「くくく、そっかあ」
女の子は腹を抱えて笑っていた。
「何がおかしいんだよ。結構考えたつもりだったんだけど」
「ううん……死ぬまでの暇つぶしなんて、もうやり尽くしちゃってさ、最近考えなくなっちゃったなあ。でもそれって、ボクの為に動いてくれるってことだよね? キミは得するの?」
損得勘定で動いてる訳じゃない。それ以外で誰かの為に動いちゃいけないなんて法律はない。ただ今僕がこの子を見捨てたら、きっと後悔するだろうと思っただけだ。
「――さあ? ただこれは、『何か』やりたいって思ってる僕に訪れた、その『何か』なんだよ。そう思ったら、できる気がするよ」
女の子は少し考えてから――。
「ふうん。なんか、面白そうだね。じゃあさ、代わりにやってよ。ボクのできないこと」
子供らしい屈託のない表情を見せて、手を差し出した。
「ボクはミオン。よろしくね」
僕も手を伸ばしたが、すり抜けた。ミオンは悪戯っぽく笑ってた。
「それで、君のやりたいことって何なのさ。死ぬ前にやりたいことリスト、作る?」
「なに? その泣かせる気マンマンな恋愛映画みたいなやつ」
「笑わないでよ……。そういう映画でしか、身近な人が死ぬってのは知らないんだ」
「ごめんごめん、ボクが恋愛映画に出てくる病弱な子みたいになってるのがさ、あまりに意外だったからねー」
「身体は既に死んでるもんね」
ミオンに病弱も何もあったものじゃない。
そもそもミオンは死に抵抗するんじゃなく、最初から死を目指しているのだ。
今すべきなのは残りの人生を堪能することじゃない。
できなかったことをすること。それ以上の意味はないのだろう。
「ボクのできなかったことはたった一つだよ。お姉ちゃんと話すこと」
素直に驚いた。こんな女の子に、お姉さんなんていたんだ。
「その子は、大切なボクの片割れ。ボクと一心同体だった子」
「死に別れちゃった家族なんだね。話って何をすればいいの?」
「う~ん、その時になってみないと分からないかな。ひとまず、ボクがここに居るよってことを伝えてほしい。キミを介して少し話すことさえできれば、ボクはこの世界から心置きなく消滅できると思う」
ミオンは穏やかな顔を見せる。消滅だとか死だとかを語るミオンの声は、やけに朗らかだ。
「その子の名前はね、プレオン・アルビレオのはず」
その名前には、聞き覚えがあった。
「――アルビレオって、君は……?」
「そうだよ。あのアルビレオ。こうみえて、ボクはいわゆるお嬢様らしいね」
アルビレオ家といえば、この地域を代表する名家の財閥だ。
子供の僕でも聞いたことがある。というか、この地域の子供なら誰だって聞かされて育つ。アルビレオコンツェルンに入れば人生安泰だって。子供の頃から勉強して、アルビレオに勤め地域に貢献するのが、この地域で理想とされている人物像だった。やりたいことは大体できるし、動かしたいものがあれば大体動かせる。さっき飛んでいた飛行機も、あれはアルビレオ社の771型。まさに、世界を股にかける超有名企業。
僕だって、まだ夢はない。たくさん勉強してアルビレオに入れれば良いかな、なんて思って勉強してた。なんとなく、空高く遠いとこまで飛んでいく飛行機に憧れたりなんかして、手元には模型を置いていたんだっけ。
目の前にいたのは、そんな夢の会社の社長令嬢だったのだ。
☆ ☆ ☆
ミオンは語った。
アルビレオ家には、双子の姉妹がいた。姉のプレオンと、妹のミオン。透き通るような青い髪の双子は美しく育ったが、性格だけは真反対だった。臆病なプレオンと、勇敢なミオン。どちらも一長一短あったが、家が家だった。アルビレオ家は由緒正しき旧家なのだ。
二人はことあるごとに比べられた。テストの類では大抵の場合でミオンが優秀だった。自発的に学ぶ能力があったのだ。対するプレオンは安定を好んだ。成長欲求は薄かったが、与えられた仕事は忘れず確実に遂行した。
両親は、できることの幅が広いミオンを愛した。一方で、プレオンには扱いがぞんざいになっていた。だが姉妹の関係性までもが悪い訳じゃない。
「ミオンはすごいや。ボクじゃできないことも、簡単にすぐ覚えちゃうもん」
「ううん、ボクはミスだらけ。プレオンみたいにずっと集中するなんて、ボクにできないもん」
姉妹はお互いにお互いを純粋な羨望の眼差しで見ていた。そこに嫉妬はなかった。
日常を切り裂くような事件は、唐突に起こった。その日はちょうど、世界中で興行している移動式遊園地が、家の近くまで来ていた。夜には綺麗なイルミネーションがアトラクションを彩り、束の間の不夜城を形作っていた。ゴーカートがコースを暴れ回り、ブランコがビルの高さを滑空する。中でも園内の中心にあった夜行観覧車は、柱の一本一本が極彩色に彩られ、幻想的な世界観の象徴として堂々と屹立していた。
そんな浮世離れした夜の遊園地で、ミオンは何にでも乗りたがった。一方プレオンは怖がって乗ろうとしない。こういう遊びの空間に来たのは初めてだった。どんなアトラクションを前にしても、ミオンは乗りたいと駄々を捏ねる。それなのにプレオンは臆病がって、結局乗れずじまいだった。
閉園時間が近くなって、一つだけで良いから乗ろうとミオンは言った。二人は観覧車に乗り込んだ。高所自体はアルビレオのビルで慣れていたから、プレオンでも観覧車だけは乗れると思えたのだ。夜行観覧車は、二人が人生で初めて乗り込んだアトラクションだった。
光り輝くゴンドラは上昇する。視界に映る遊園地はだんだん小さくなっていく。
そして、二人の俯瞰する人々が豆のようになり、おおよそ頂点に達したとき。
――そのゴンドラは、真っ逆さまに転落した。
仮設と解体、地上と高所を何度も繰り返すうちに、どこかで金属疲労が生じていたのだった。
☆ ☆ ☆
僕はすっかり、言葉を失ってしまっていた。心のどこかが欠けたような感覚。ミオンにも分かるほど、背筋を震わせていたと思う。
「あはは、そんなに怯えなくて良いよ。これでも痛くはなかったんだよね。即死だったし。現場を見た人は災難だったろうけどね」
そんなことで怯えてるんじゃなかった。
「災難だったね……、死ぬとか、死んじゃうとか、怖くなかったの?」
「うーん、ちょっとは思ったかな。でも、気付いたら身体が投げ出されててさ。正直、考える暇はなかったかなあ。人間本当にびっくりすると声も出なくなるんだね」
それは、さっき僕が思っていたことだ。
僕は重々しく口を開く。
「……正直、そんな急に人生終わっちゃうなんて、やってられないよ。そりゃそんな死に方じゃ、成仏なんてできる訳ない。だから君はずっとこの世界を彷徨ってるんだ」
「そうかな? 人の死って大抵こんなものだと思うけどなあ。気付いた時には終わってるって。いや、死んだらそのことに気付けないのかな? でもボクは自分が死んでることに気付いてるしなあ……」
自分が死んでいることに気付くって、なんだか哲学的だなと思った。
「僕はそんな風に死んだら、多分成仏できない。何が何でも、人生でやり残したことをするよ」
「へえ~。本当にキミの『死』をもらいたくなっちゃったなー。君ならこんな世界を永遠に彷徨って、何でもしちゃえる気がするよ」
ミオンはよく分からないことを言っている。
「……観覧車には二人が乗っていたんだよね? 二人とも、死んじゃったの?」
「ううん。プレオンはね、奇跡的に助かってたんだ」
その事故で命を失ったのは、ミオンただ一人だけだった。遊園地は即刻営業中止になり、安全基準が見直されたらしい。ミオンという罪なき少女が礎となり、遊園地の安全基準が見直された。誰かが犠牲にならなければ、こんな改善はなかった。皮肉な話だ。
「とまあ、こんな感じで、ボクはプレオンと別れたんだよね。でもこの意識だけはあって、キミと会話することはできて、キミはまだこの世界に干渉できる。だったらボクの意思も伝えることができるでしょ? だったらボクはプレオンに会って話したい。キミにはボクの通訳をしてほしいんだ」
「……それが君の一番やりたいことで良いんだね?」
「唯一やりたいことだよ。一番とかじゃないんだ」
「でもさ、唯一だったら、挑戦したことくらいあるんでしょ?」
浮遊しながら遊んでいたミオンが固まった。
「どうしたの? 君の身体だったら、お姉ちゃんを見に行くくらいのことはできるはずでしょ」
「う~ん、ヒミツ!」
「……見に行った人のセリフだよ。それ」
ミオンは照れくさそうに舌を出した。
「うん。まあ実はね、姿を見ようと思えばいつでも見れるんだよね。でもここ最近は見に行ってないかな。どうせ話せないし、余計に意識しちゃってさ。いつからか、行かなくなっちゃた」
「じゃあさ、すぐ行こうよ。きっとプレオンは待ってる」
☆ ☆ ☆
僕らは屋敷の前に立っていた。
文字通りの大豪邸。身長の二倍ほどもある高い柵が敷地を囲っている。塀でなく柵にしているのは、手入れされた立派な庭園を誇示する為なのだろう。門から続く小径の脇に、背の低い芝生が整えられており、その奥では噴水と花壇。家屋の近くには白い机と椅子が並べられた、休憩スペースになっている。隅々まで手入れされたこの庭が個人のものだと聞けば、誰もが驚くだろう。道行く社会人はこの豪邸を尻目に、自分もいつかはこういう億万長者になるのだと野望を滾らせているようにも見えた。
「絵に描いたような大豪邸だね。ここにプレオンがいるの?」
「うんうん。住み込みのお手伝いさんもいるよ。紹介しよっか? 雇ってもらえるかも」
「……ここに、僕が忍び込むんだよね。本当に大丈夫なの?」
「せっかくボケたんだから無視しないでよ」
ミオンはなんだかイジけている。僕にとってはふざけるどころじゃないのだ。身の丈が違いすぎる大金持ちの関係者と話して、ここにミオンの幽霊がいますなんて言っても、通じるはずがない。そもそもプレオンと話して、ミオンの存在を信じてもらえるのかも怪しい。
だからなのか、僕の頭はもうここに忍び込む不安と緊張でいっぱいだった。
「セキュリティはね、ボクがいるんだから平気だよ。ねえ見て、ケバブごっこ!」
ミオンは自分の身体をまっすぐ柵に刺して、ぐるぐる回っていた。……その微妙なネーミングセンスはなんなんだ。
ともかく、ミオンは本当に壁をすり抜けるのが好きらしい。
「僕が敷地に入らきゃ意味がないでしょ。お姉ちゃんと会話するのは僕なんだ」
「だから、その為のボクなんだってば。監視カメラとか、守衛さんとか、なるべくなら避けたいでしょ? ボクが見張っててあげるよ」
作戦を練ろうとした、その時だった。
「失礼します」
落ち着いた男性の声がした。黒い警備服に身を包んでいる老人だった。気付いた時には、僕のすぐ傍にいて一礼をしている。近付く音さえ聞き取れなかった。僕という子供に対して、軽んじることなく毅然と構えている。
そして再び男が顔を見せた時、細く皺のできた瞼の奥で、瞳がギロリと煌めいた。
「私は、アルビレオ家で護衛をしておりますサボンと申します。先ほどから敷地の前をうろうろしてらっしゃいましたので、道に迷われたのかとお見受けしましたが……どうされましたか?」
目は笑っていなかった。
「あ……えっと……」
こういう大人にはどう接すれば良いんだっけか。子供らしく? 曲がりなりにも敬語を使ってみる? 間違いだらけだろうけど。
ミオンを見ると、小声でがんばれーと応援してくれていた。助ける気はないらしい。
悩んだ末に、僕は逃げる。
「いえ。ただ、大きなお屋敷だなーって見とれていて……」
「そういうことでしたか。失礼いたしました。ですがここは私有地です。羨望の眼差しで見ること自体は構いませんが、ご主人様のご迷惑とならぬよう、ご配慮をお願いいたします」
老紳士は一礼して引き返していく。正門に堂々と入ると、入ってすぐ左にある小屋に入っていった。普段はそこで構えて、入ってくる車の確認や周囲の監視を行っているのだろう。
背筋が凍った。身体は完全に硬直していた。正直、お化けが出たかと思った。
「あはは、面白かったー」
口を開いたのは、本当のお化けのほう。ミオンだ。
「見張ってるって言ったのはどこの誰だよ」
「ごめんごめん。ボクだって気付かなかったんだよね~」
「一言二言話しただけなのに、めちゃくちゃ疲れたよ……。要するに『立ち去れ』ってことだよね、あの口ぶりは」
それも「立ち去れ」なんていう、頭の固い大人がするような否定じゃなかった。対応は大人に対するやり方そのものなんだろう。自分で言うのはなんだが、僕みたいな子供にまであんなマニュアル通りの対応を行うのは、異常なまでの忠実さを感じさせる。
だからこそ、屋敷に入るのは難しくなってしまった。マニュアル通りとは融通が利かないということだ。あのサボンとかいう警備員は、僕を一人の大人として見た上で、外部の人間への対応を行っている。子供だからって甘く見てくれるわけではない。一筋縄ではいかない。
「サボンさんは悪い人じゃないよ。多分」
「昔から知ってるような口ぶりだね……」
「うん、知ってるも何も、ボクが物心ついたときからお屋敷に仕えてるよ。面白い人だよね。誰に対しても真面目に振舞うし、真面目すぎて昔はパパにも突っかかってたなあ」
それは一つの正義かもしれないけど、雇われの身としては問題行動では?
「いや、あれはかなりのマニュアル人間に感じたよ。明らかに目下の人間に敬語って……」
少なくとも、ルールを無視してまで自分の正義を訴えるような性格には見えない。
「うーん。とにかく、一度決めたらとことん貫き通す人って印象かな。本当に良い人」
「だから困るんだよ……」
相手は鉄壁のガードマンだ。この豪邸の攻略は難しいぞと、自分に言い聞かせた。
☆ ☆ ☆
少しだけ知恵を絞って、この屋敷に入る方法をひねり出す。
「何してるの?」
空中浮遊を終えたミオンが僕に尋ねる。一人で黙々と作業している僕をつまらないと感じたのか、さっきまで高い所に飛んでいたのだった。僕の準備していたことは知らないのだろう。
だったらそれで構わない。そもそもミオンは僕が視認できるだけであって、この世界には干渉できないのだ。結局は僕が行動しなければいけない。
僕は、さっきまで作っていた小道具を見せる。
「なあに、これ?」
「紙飛行機だよ」
僕がせっせと作っていたのは、紙でできた飛行機だった。折り方は身についている。折り紙といえば鶴を連想する人も多いけれど、実は鶴よりもずっと簡単。
ちなみに紙の正体は、アパートの郵便受けに溜まってはみ出たチラシだ。入れ方が甘い紙を見つけて、引っこ抜いて拝借した。どうせ読まれない紙だろうし、このくらいは許してほしい。
「サボンさんは大人だったけど、僕は子供だ。僕は子供なりに勝負してみるよ」
第二回戦、開始だ。
屋敷に再び行く。今度はミオンに見てもらって、サボンに見られない位置を探る。周囲の監視カメラの死角をくぐり抜け、柵越しに中の様子を眺める。
中庭に一人、女の子がいた。同じ青紫の髪、同じ背格好の少女。あの子がプレオンだろう。数人のメイドと、一緒に白い椅子に腰かけている。小さくて見にくいが、テーブルには白い小皿が並んでいるようだ。真ん中にはポットも置かれており、穏やかなティータイムを満喫しているようだった。
しめたと思った。僕は空高くに向かい、目いっぱいの力で紙飛行機を投げる。希望を乗せた紙は、まるで本物の飛行機のように、空気をかき分け柵を越え、敷地の芝生の上に落ちる。
――これで、口実はできた。
僕は正門に堂々と向かう。今度はコソコソしない。
「ごめんくださーい」
聞こえるように大きな声を出すと、小屋からはサボンが出てくる。一緒に、ミオンが背後霊のように憑いて回っていて、僕を見つけるなり、ピースしながらサボンの胸元から湧いてくる。大事な作戦の途中なのに笑わせようとしないでほしい。
相変わらずサボンというご老体は、僕に対して深く一礼してから、
「先ほどのお方ですか。どうされましたか」
僕は、申し訳なさそうに顔を伏せる。サボンからそう見えるよう表情を作った。
「……あの、本当にごめんなさい! 紙飛行機で遊んでいたら、柵を越えて入ってしまって……。中に入らせてもらえると嬉しいんですけど」
「承知いたしました。では警備の者で敷地内を探索いたしますので、少々お待ちいただければ」
「いえその、場所は分かるんで、僕が直接入った方が分かりやすいと思うんですけど……」
「どの辺りでしょうか」
そう尋ねるサボンだが、そうやすやすと僕を中に入れるつもりはないらしい。言葉で場所を尋ねてくるだけだ。僕は心の中で舌打ちをする。正直、これで少しは敷地内に入れてもらえると思っていた。だが甘い。これでもダメなのか――。
それでも、粘るようにして言ってみる。
「その、う~んと、どこだっけ。行ってみたら分かると思うんですけど……ほら、この敷地って広いから説明が難しくて……」
「では、私が後に続きますので、外を回りましょう。紙飛行機を投げ込んだ場所まで案内していただけますでしょうか?」
外からじゃプレオンに会えない。やはり一筋縄ではいかないらしい。どうしてもこの敷地内に入るのは無理だった。もし仮に敷地に入れたとしても、サボンが付きっきりになるだろう。監視の目をかいくぐってプレオンに会うのは無理そうだ。やはりサボンは優秀だ。
二人で一緒に紙飛行機を取りに行く。敷地を出たサボンが、常に僕の後ろについて目を光らせていた。気が気でない。これ以上ハッタリを続けるのはもう不可能だろう。
ふと、後ろから声が上がる。
「つかぬことをお尋ねしますが、何故この辺りで紙飛行機を?」
ビクッとした。そんなこと、考えてなかった。
「えと、その……。本当にすいません」
「いえ、咎めているのではないのですよ。今後の対策も兼ねて、お話を伺いたいのです。あなた様も、このような手間を繰り返すことは避けられますでしょう?」
「ですね。えっと……実は、御社の開発しています航空機に憧れてまして」
必死に絞り出した言葉は、なんだか面接を受けに来た社会人みたいだった。それにあまりに不慣れで、自分を呪いたくなる。だが、完全に嘘という訳じゃない。
「それで、この辺りで紙飛行機を飛ばしたくなったということでしょうか」
「はい。なんとなく……ここにいると、僕の折った飛行機がアルビレオ771になれるような気がしまして」
ハッタリだ。
サボンの眉がピクリと動いた。失言に気が付いたのはその時だった。
「いやはや、型式名までご存じとは恐れ入りました。航空機産業は先代社長が始めた事業でして、比較的新しいプロジェクトで社内でも反対意見が多かったものですから、そうおっしゃって頂けると、今は亡き先代社長も喜ぶと思います」
「それは、良かったです」
無垢な子供を演じるなら771なんて言うべきじゃなかった。そう思っていると――。
「それで、どうして771なのでしょう? 世界的に有名であるところの774型機ではなく」
やはり深堀りさせられる。なんでかって、ずっと僕の手元にあった模型だからだ。
「最初に知った飛行機で……あと主翼が大きくて飛んだ時の影が一番格好良いかなって。最近の型だと翼の端っこが立ってますが、あれは翼が広がってて……」
「なるほど。771は初期のモデルでしたから」
僕は意外と、飛行機オタクな少年のように見えているようだった。というか実際そうなのだから、話していて気が楽だった。意外と失敗じゃないのかもしれない。あと妙にサボンと話が合うのが、なんだかもどかしかった。
僕らの会話は暇潰しのつもりなのか、それとも醜い腹の探り合いなのか……。少なくとも、幽体のミオンは僕らの会話を大爆笑しながら鑑賞していた。君はどっちの味方なんだ。
飛行機について語り尽くす頃、僕らの足は飛行機を投げ込んだ場所に到着していた。紙飛行機は外側から見える芝生に着陸したはずだ。外の歩道から柵の中を眺める。
だがそこにいたのは、女の子。
「あっ、サボンさんだ……。これ、落ちてたよ」
幽体の子とよく似ていて、さっきティータイムに興じていたプレオンだ。
「お嬢様、その紙飛行機はこの方の所有物です。返してあげましょう」
「うん、あげるね」
女の子は僕に近付いて、柵の隙間から紙飛行機を渡す。そして小さく僕にウインクをしてくれた。ミオンだったら、柵の上に飛ばして渡すんだろうな、なんて思っていた。
全てが終わり、プレオンは屋敷の方に戻っていく。僕がこれ以上話すことはできなさそうだ。女の子の後姿を見ていると、サボンが僕に声を掛ける。
「これでよろしいでしょうか?」
「はい、ありがとうございました」
紙飛行機は返された。僕らはこのまま引き下がるしかない。
☆ ☆ ☆
僕とミオンは近くの公園に来ていた。大型病院の隣に作られた小さな公園だ。大きな建物に遮られて日は当たらないし、騒音で病院側から苦情も来る。今やすっかり、誰にも遊ばれない空間だった。遊具は撤去されていて、中にはベンチがいくつかあるだけ。当然子供の姿はなく、病院帰りの老人が日向ぼっこしていたり、ペットを連れた年配女性が立ち寄るスペースになっていた。
「結局無理だったね~、やっぱりお屋敷の警備は厳重かあ」
ミオンはこんな時でも明るい。むしろ嬉しがってるようにすら感じる。ミオンは今、どんなことを考えているのだろうと思った。
僕は小さな声で言う。
「……ううん、成功だよ」
その証拠に、公園に人影がやってくる。さっき紙飛行機を拾ってくれた子が、一人で来てくれていた。
ミオンの動きが止まった。
「すごい、どうして?」
「簡単だよ。紙飛行機にメッセージを書いてたんだ」
サボンが僕を敷地に入れないだろうことは、紙飛行機を飛ばす前から予測済みだった。
だから紙飛行機に細工をした。といっても、チラシの裏の白紙になっているところにメッセージを書いただけだけど。
『僕は亡くなったミオンさんと会話できます。ミオンさんの幽霊と会話してみませんか? 気になったら、屋敷を出て右に曲がったところの公園まで、一人で来てください。待ってます。この文章を読んだらこの部分を逆さに折って、外にいる僕まで渡してください』
紙飛行機をサボンに拾われさえしなければ、まだ希望はあったのだ。だから僕は正門から真正面に入ろうとした時、彼の動きを拘束することだけを考えていた。結果飛行機の話で盛り上がるとは思っていなかった。
僕が紙飛行機を受け取る頃には、メッセージの部分は折り目に隠れて見えることはない。見た目はただの紙飛行機だし、広げて確認されることもない。後はこれを拾った人が、少しでも好奇心を持っている人で、僕の話に耳を傾けてくれる人であることを願うだけだった。
本来はメイドでも誰でも、飛行機を手にした人が来てくれれば説得のチャンスはあると思ってた。まさか、一番呼びつけたい本人が拾ってくれるとは思わなかったけど。
簡潔に説明を終えると、ミオンは心の底から感心したような声を出して、
「そうかそうか。キミには誘拐犯の素質あるね」
「もうちょっと良い言い方はなかったのかな? 僕が悪い人みたいじゃないか」
「悪い人だよー。ボクの住んでた家の人は今頃大変だろうし……」
もともと君がやろうとしたことじゃないか。やれやれと言った仕草が自然と出た。
「……もう逃げられないよ。お姉ちゃんと話す時が来たんだ」
僕はミオンに言った。そんなに怖いのだろうか、ミオンはずっとばつの悪そうな顔を見せていたのが不思議だった。
女の子は僕に近づくと一礼をした。大人しい印象。ミオンの第一印象とは大違いだ。
「初めまして。興味深いお話だと思ったので、お伺いさせて頂きました。単刀直入にお尋ねします。幽霊さんと会話ができるって、本当なんですか?」
舌足らずながら敬語ができるあたり、ミオンとは大違いだな。
僕は勇気を出し、正直に告げることにした。
「……信じてもらえないかもしれないけど、僕には死んでしまったミオンさんが視えるんだ。それで、どうしても君と話したいらしくて」
女の子は口元に手を当てる。信じられないといった表情だった。
正直、ここまでは台本通りだった。後は賭けだ。この子が霊的な存在を信じてくれるかどうか。そういう話を信じてくれるか。望みは薄いと思う。僕だったら、多分信じないし。
だが、一度信じてくれれば。僕は通訳に徹すればいい。ミオンとプレオンの二人しか知らない秘密を言えば、信じてもらえるだろうか。ミオンはそのことをちゃんと語ってくれるだろうか。それから先は二人の問題だ。
僕は少なくとも、この子に信じてもらうことばかり、考えていた。
だが女の子が発した言葉は、僕の予想外のものだった。
「……ミオンお婆ちゃんが、私に?」
お婆ちゃん? お婆ちゃん? お婆ちゃん? 頭の中で予想外の言葉が何度も反響していた。
「ちょ、ちょっと待って」
僕は虚空のミオンを見つめる。頭を掻くミオンに尋ねる。
「ねえ、どういうこと。お婆ちゃんってどういうことだよ」
ミオンは答えない。喋らず、ずっとそこに浮遊している。ダメだ。完全に質問を拒んでしまっている。僕は女の子に向き直る。
「ごめん、聞きそびれていたんだけど、君の名前は……プレオン、だよね?」
すると、女の子は首を横に振った。今度は怯えていた。
「……プレオンってだれ、ですか?」
はっきり、そう言った。
「わたし、レイヨン……あ、ごめんなさい。わたしの名前、言い忘れて……」
「ミオンのお姉ちゃんじゃないの?」
「ミオンお婆ちゃんはね、わたしのお婆ちゃん。もう死んじゃったけど」
ミオンが、お婆ちゃん。確かにこの子はそう言った。
レイヨン? レイヨンって誰だ? じゃあプレオンは、どこにいるんだ?
「お婆ちゃんはね、飛行機に乗りたがってたんだ。でも頑張りすぎちゃったのか、わたしが生まれたすぐ後、病気で死んじゃった。だからね、一回で良いから遭いたいなって思ってるんだ」
女の子の語る話は、僕の知ってるミオンの最期と明らかに違う。
何が起こっているのか。理解が追い付かない。その時だった。
「お嬢様! どこにいらっしゃるのですか! お嬢様!」
サボンの声が聞こえてくる。お嬢様がいないことに気付き、全力で探していたのだろう。
「ごめんね。わたし、勝手に抜け出してきちゃったから。もう行かなきゃ」
レイヨンが駆け出すより、警備の男の両目がこちらを捉えたのが先だった。
「お嬢様! 一人で屋敷を抜け出さないでください」
発見しました、などとしばらく無線で連絡を取ると、レイヨンに駆け寄って抱きしめる。
「お嬢様、ご無事で何よりです」
「ごめんね、サボンさん」
老紳士と少女の抱擁が終わると、サボンは立ち上がった。長身が僕の視界の光を遮る。今度は嫌悪の眼差しを全身で感じた。
「またあなたですか……何度も我々にイタズラをして、何を目的とされているのでしょうか」
僕は押し黙る。答えることはできなかった。
「――こちらとしても、次は何らかの法的手段に訴えざるを得ませんので、お忘れなきよう」
「待って、この人は良い人」
レイヨンが飛び出して、サボンに訴える。しかし、
「お嬢様を一人で呼び出すようなお方が、良い人なはずがありません。外の世界は何が起こるか分かりません。お嬢様の身に何かあったら、私はミオン様に向ける顔がありません。お願いですから、屋敷にいてください」
「はーぃ……」
サボンがレイヨンの手を引いて、去っていく。
誰もいない、誰も遊ばない公園に、僕とミオンだけが取り残されてしまった。
気温が冷える。鳥肌が立つ。もう日は傾き始めていた。
僕は隣のミオンを凝視する。ミオンはずっと固まったまま、動かない。時々手をグーパーさせ、緊張を紛らせていた。
だから僕も、最大限に言葉を選んだ。
「ねえ、ミオン。話したくないかもだけど、君には、本当のことを言う義務があると思うんだ」
それでもミオンは喋らない。
「あの子はプレオンじゃなかった。それで君は、あの子のお婆ちゃん? どういうことだよ。ここまで僕を動かしておいて、何のつもり? 僕を騙したの?」
「……そういうことになるかな、あはは」
「笑い事じゃないよ! 僕のこれまでの努力は何だったのさ。僕自身で決めたこととはいえ、君の支えになってあげたいと思って行動していたのに……」
感情が一気に漏れ出る。ああ、この感触は好きじゃない。
やりたいと思っていたことが、実はただの無駄骨でしたなんて知った時の絶望感。全身全霊を掛けた努力が水泡に帰す瞬間。一人の子供でしかない僕には何も変えられないんだという虚無感。
――支配される。何もできずに終わっていくという恐怖。ミオンのことなんかどうでもよかった。このまま何も成し遂げられないまま全て終わっていくということが、僕は何より信じたくないのだ。
「まず君は、誰なの? お婆ちゃんなの? 子供なの? 誰なの?」
「さあ、僕にも分からないんだ」
「……怒るよ」
「怒って良いよ」
怒って解決する問題じゃないことは重々承知している。だから意味がない。それはお互いに分かっている。何よりもミオンのことが分からない。
「もう、勝手にどこにでも行ってくれ。もうついてこないでくれ」
「うん。キミがそう言うなら、そうするよ」
あっさりとした返事の後、霊体はどこかに飛んで行った。
今度こそ、本当に一人だ。
これから僕は何をすれば良いのだろう。何のために動いたか、よく分からない一日だった。
何をしようか考えながら、公園を出る。すると、背の高い男が僕を待っていた。サボンだ。
「何の真似だよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てたが、サボンは一礼した。
「レイヨンさんからの言伝です。『お婆ちゃんのお墓に行ってほしい』とのことで。同行するように仰せつかっております」
「ミオンのお墓……」
「先代社長のお墓です。ご覧になれば、少しは我々のことが分かるやもしれません」
僕は、こくりと頷いた。
☆ ☆ ☆
大金持ちが乗るような黒い高級車に乗せられると、車は山を上っていく。
車内では、何も話すことはなかった。真面目な人柄なのか、僕に何も語りたくないのか、隣の運転席で、サボンは意図的に会話を避けていた。僕はただ座って膝に手を乗せていた。
やがて、何の変哲もない丘にたどり着く。丘を上がったところに、森を開けて作られた墓地があった。墓石には、それぞれ死者の名が彫られ、中には遺骨が納められている。この街で亡くなった先人たちのお墓だ。
「こちらです」
男の指し示す先に、「それ」はあった。
アルビレオ家の人間といえど、墓石まで豪華という訳ではない。一定の財を遺して亡くなった者なら誰でも建てられるような大理石でできた墓だ。
そして墓石には、死んだ二人の名が刻まれていた。
双子の姉妹の名前。ミオン・アルビレオ。
そして、もう一つ――ミオン・アルビレオ。
びっくりした。同じ名前が二つ。プレオンの名前はどこにもない。
「ミオンが、二人……いる」
僕が独り言のように呟くと、サボンがようやく口を開いた。
「ミオン様は、双子の姉を事故で亡くしておられるのです」
それが、僕の話していたミオンなのだろう。
残されたミオンも、既に亡くなっているということなのか。
「私は御二方が幼少の頃から、ずっとお二人の身辺警護をしておりました。両親はたいそう厳しい方でして、お嬢様たちには大変な苦労をさせてしまったと反省しております。当時の私は若く、当時のご主人様にお嬢様らへの指導を優しくするよう意見を訴えておりました。が、要望は通らず、お二人に自由はありませんでした。そしてある時――」
「――移動式遊園地が、この町に来たんだ」
「はい。その日私はとんでもない失態を犯したのです。とうとう情に駆られ、こっそりお嬢様たちを夜の遊園地へと連れ出しました。そして観覧車に乗った際、事故に遭い――」
二人を連れ出したのは、サボンだったのか。僕は奥歯を噛みしめる。
「本来であれば、起こるはずのない事故でした。それなのに、ミオン様は私を許してくださり、こうして今の私が在るのです。私は二度と同じ過ちをしないよう、生涯レイヨン様を守り抜くと誓っております」
サボンがこんなにも堅苦しいのか、分かった気がした。単に仕事に誇りを持っていただけなのだ。この男にとっては護衛が生きる糧なのだろう。それはもう、パイロットが最後まで安全なフライトを行うのと同じくらい。そんなサボンが、僕は初めて尊敬できた。
僕は本題に入る。
「それで、プレオン・アルビレオはどこにいるんですか」
「プレオン様のお名前をご存じでしたか。特別なことはありません。既に棺に入っているご遺体のどちらかでしょう」
「どちらかって、どちらなんですか」
「それが、私にも分からないのです。お二人はよく似てらっしゃいましたから。観覧車の事故で亡くなった身体は、プレオン様のものでした。しかし、残された人格もプレオン様のものだったのです」
「そんなこと、あるはずが……」
「はい。私も耳を疑いました。ですが仕草や性格は、確かにプレオン様のものでした。ミオン様がプレオン様を演じていたのか、それとも本当に中身だけが入れ替わったのか、私には分かりかねます。事故を経験した後のお嬢様は、それはもう熱心に勉強されていました。航空機事業で成功したのも、そのおかげでしょう」
「……安全な空の旅を実現させたんだ。双子の姉妹の死を糧に」
「おそらく、そういった心理なのだと思われます。そのお姿を傍から見ていただけに、私としても航空機は応援したい分野なのです」
「それだと、後に死んだのはプレオンとなるんじゃ……」
「いえ。それが、両親の死後、プレオン様は自身のことをミオン様だと言い張るようになって……。我々共も悩みました。最終的にはこのような形で、ミオン様を供養させていただく運びとなったのです」
「ああ、それで……」
あの幽霊の子の真意を、なんとなく推し量る。事故で狂ってしまった双子。ミオンとプレオン。その真実を知りたくて、僕は言う。
「ここを紹介してくださり、ありがとうございました。できれば、先に帰っていただけませんか? 一人でやりたいことがあるんです。レイヨンさんにもありがとうと伝えてください」
「承知いたしました」
サボンはそれだけ語って背を向ける。最後まで男の背筋が曲がることはなかった。
☆ ☆ ☆
それは、世にも珍しい移動式遊園地が町に来ていた時だった。
今日がその千秋楽。今日が終われば遊園地は畳み、また別の地域へと移動する。たった一週間の夢の空間だったけど、夢はまた世界各地を巡るのだ。知らない場所へ旅しながら幸せを届けていくような仕事が、ボクには魅力的に思えた。
最後くらい、ボクも行ってみたかった。普段のお勉強とは違った何かが、あそこにはあると思った。ボクの中の何かが変わると思ったんだ。何かに興味を惹かれるなんて、ボクには滅多にないことなのに……それでもボクの頭の中は、あの光り輝く観覧車のことで一杯だった。
――しかし、現実は甘くない。
「いい加減にしなさい。夜は経営の勉強と言ったろう。既に先生も来てもらっているんだ。キャンセルなんかしたら、家に泥を塗ることになる」
パパは、ボクたちが外出することを認めてはくれなかった。それどころか、
「久々に意見を言うようになったと思ったら、遊びたいとは……もう少しは、アルビレオ家の娘としての自覚を持ったらどうなんだ? 妹のミオンはなんでも頑張っているというのに」
ボクはパパから嫌われていた。実際ミオンの方がよくできているし、それは仕方ないと思う。ボクには、黙って引き下がることしかできなかった。
今日で最後なのに――。今日が終われば、次に来るのはいつなのかも分からないのに。こんな一大イベントを逃して、いつでもできるはずの勉強をしなければいけないなんて――。
そう考えて、泣きそうになっていたとき。
「お嬢様、こちらです」
見かねた警備のお兄さんが、声を掛けてくれたのだ。
ボクらは勝手に抜け出した。ミオンは面白そうだと思ってついてきたし、ボクもなんとなくいけないことだとは思っていたけれど、夜の遊園地の誘惑には勝てなかった。
そしてボクらは遊園地に着いたのだけど――。
光り輝くネオン。夜なのに、そこでは昼間のように人々で賑わい続けている。ボクはすっかり惚けた顔で、そんな夢の世界を眺めていた。
アトラクションに乗ろうとは思えなかった。そこで働く人たちを、そこで遊んでいる人たちを、しっかりと見つめていたかった。直に触れるより眺めていたかった。ボクの知らない人たちが、ボクの知らないことで楽しんでいるというのが、ボクにはとても新鮮だったのだ。
そして最後、ミオンの説得でどうしてもということで、観覧車に乗り込んだ時だった。
「見て、人が宝石みたいだよ!」
「あぶないよ、じっとしてようよお」
身を乗り出すミオンを、ずっとボクはたしなめていた。身体は動けない。高い景色には慣れていたけれど、気球型のゴンドラでは高い所で野ざらしの状態だ。普段ミオンらを守ってくれている窓ガラスは、ここにはない。冷たい風が吹きつける度に、落ちるかもしれないという恐怖で、ボクは自分の身体を硬直させていた。
そして、ボクらの身体が頂点に達した瞬間。バチンと、何かが弾ける音がした。
途端、僕らを支えるゴンドラが、あり得ない角度で傾いた。
ボクは声にならない声を上げて、手元すぐ近くの柱にしがみつく。でも身体を乗り出していたミオンは、そのまま体のバランスを失って、前のめりに落ちて行ってしまいそうだった。
そのときのボクは、妙に頭が冴えていた。時間がまるで半分の速度で進んでいるような気分だった。考えていたことは、本当に単純なことだった。
ボクが、行かなきゃ――。
ボクが、ミオンを救う――。
ボクは、ミオンの足首を掴む。全力で引き寄せる。
そして――、ゴンドラは落下した。
「ボク」の記憶は、そこで途切れた。
――どれだけの時間が経った頃だろう。意識が戻る。彼女は自分の状態を確認する。身体は自由に動く。痛みはない。それなのに、どこか違和感があった。自分の身体を、どこか外の空間から操作しているように感じるのだ。映画や演劇を見ているみたいに、真っ暗闇の中に自分がいて、網膜の光景を眺める別の自分がいるのだ。視界と認識の間に、一定の空白があった。身体が自分のモノであって自分のモノじゃないような感覚。自分の身体が実体を伴っていないような、中途半端な意識。
起き上がろうとして、ようやく異変に気付いた。
身体を支えるはずの腕が、地面をすり抜けるのだ。手を引っ込めると、地面から自分の掌が出現する。感触はなかった。よく見たら、地面に足はついておらず、浮遊したままだった。
そこで初めて、自分が幽体になってしまったことに気が付いた。
身体がこの世界との縁を切ってしまったようだった。誰にも反応されず、この世界に干渉もできない。光と音を受け取るだけの観測者だった。
移動はできる。念じるだけで、足が動いていないのに身体は動いた。どこまでだって飛べる。このまま帰らなきゃ。帰ってミオンが大丈夫か確認しなきゃ。
少女は家を探す。一度成層圏へと飛び上がり、この国全体を俯瞰してから、全速力で駆け下り、実家に突入する。屋敷の高い柵など、既に壁ではなかった。
もう一人のボクは生きていた。良かった。あの時自分が行動したことに、意味はあったのだ。人生の最後に勇敢に飛び出すことができて、本当に良かった。
……だというのに。
「ねえママ。……ボクは、プレオンだよ。ねえママ」
目の前で、ボクと姿かたちのよく似た少女は、そう言い張っていた。
親からはミオンと呼ばれている。それなのにこの子は、自分をプレオンだと主張する。
やがて、死んだのはミオンということになっていた。お墓に入ったのはミオンの方だった。
どうして? 霊体となったボクは考えていた。
――自分は誰? そして、この子は誰? 死んだのは、誰?
――そもそも、私はいつ死ぬの? もう死んだの?
やがて、ボクは自分の身体が死ねなくなってしまったことに気が付いた。プレオンが受け取るはずの『死』は、ミオンが引き受けていた。目の前でまだ生きているもう一人のボクは、プレオンということになっていた。
それだけなら良かった。アルビレオ社を引き継いだプレオンは、すぐさま航空機産業に手を出す。アルビレオの飛行機が世界を滑空し始めた時、もう一人のボクは既に子を産んでいた。孫ができた時、もう一人のボクは人生を堪能したミオンとして再び死んだのだ。
もう一人のボクは、プレオンとしての人生を全うし、ミオンとしてこの世を去った。
ミオン・アルビレオは二度死んだ。死ねないプレオンはここにいる。
☆ ☆ ☆
サボンの姿が消えた後、僕は目の前の墓石に語りかける。
「見えてるよ」
はみ出していた髪がピクリと動いた。やっぱりそこに、幽霊の女の子はいた。墓石に埋まってるつもりだろうけど、さっきからちらちらと見えていたのだ。
「う~ん、バレてたかあ」
「ひょっとしたら君もいるかなって思ってたんだ。キミが一人で行くような場所って限られてると思ったし」
ミオン? プレオン? とにかくこの子は、自分の居場所ももう一人の居場所も最初から知っていた。一緒にお墓に入っていることが分かった上で、ボクに声を掛けてきたのだ。
「……こんなボクにまだ構ってくれるなんて、キミは優しいんだね」
「優しくなんかないよ。僕はただやりたいことをやっただけだ。君だって心置きなく『死』を迎えたいだろう?」
プレオンを探すことは、もう既に僕の達成すべき目標になっていた。乗り掛かった舟、いや、この場合は浮き上がった飛行機といった方が適切だろうか。
幽霊の女の子は言う。
「……だったら、分かるでしょ。ボクは死ねない。生きてもいない。ボクはもう一人に『死』を奪われたんだ。本当に、ボクは何者なんだろう。プレオンでもなくてミオンでもない。どちらかといえばプレオンなのかな? まだ死ねていないんだから」
目の前の幽霊に尋ねた。
「結局、君は自分のことを誰だと思ってるんだい」
「……今のボクはプレオンなんだろうね。でも元々どっちなのか分からないんだ。確かに脳の中にはね、プレオンの記憶が格納されているんだよ。なのにどうも実感がないんだ。あの時死んだボクは、本当にミオンだったのかも分からない。あるいはボクの身体はプレオンで、それを操作している本当のボクはミオンなのかもしれない。そんなことってあるのかなあ、なんて思いながら、世界中を飛び回ってた。似たような境遇の人には、出会えなかったけどね」
「ミオンは死んで、プレオンは死んでいない。ひとまず僕は、君をプレオンと呼ぶよ」
彼女の正体は分からない。確実なのは、この少女は死ねないプレオンとして、ずっとこの世を鑑賞しながら彷徨っていたという事実だけだ。
「ミオンは二回、死んじゃった。だからボクはもう死ねない」
あるのは、この世を永遠に彷徨う意識だけ。彼女は既に何十年もこの世界を旅して、そして僕に出会った。そんな少女と、僕は出会ったのだった。
「それじゃあ、君が言った、死ぬ前にやりたいことっていうのは……」
「本当に、もう一人のボクを探すことだったんだ。そうすれば、本当のボクが誰なのか、知ることができるんじゃないかって思ってね。キミにはプレオンを探してもらいたかったから、ボクはミオンと名乗った。それが唯一、君から『死』をもらわずに死ぬ方法だと思ってはいたんだ。何の罪のない君を幽体にするのも、それはそれで気が引けたからね。でもまあ予想通り、満足する答えは得られなかったんだけど……」
だから、僕は動かされた。答えのない問いを、僕はずっと探し続けていたのだ。
だったら、僕は別の方法で答えを探したいと思った。
「――僕にはさ。君がどっちなのか、プレオンは誰なのか。分からないよ。正直、僕も話を聞いただけでいまいちピンと来てないしね」
「分からなくて良いよ。どうせ解けない問題だ」
「ううん。でも、これだけは確実だと思うってことが一つあってさ。残されたミオンのことで」
プレオンは眼を瞠る。
どうしてミオンは二度死んだのか? 解くべき疑問はそれだけだ。
だから、少しだけ考えていた。詭弁みたいな論理だけど、一応の答えは用意できたと思う。
「ここからは僕の考察でしかないよ。でも、こういう考え方はできると思うんだ」
それは、何も遺せずに死ぬことが怖かった僕だから、思いついた説だ。それでも、提唱する価値はある。僕は大きく息を吸い、語る。
「プレオンが亡くなった後のこの世界で、残されたもう一人は思ったんだよ。両親はミオンを愛していて、双子はミオンだけが遺されてしまった。このままミオンとして残れば、両親の愛を一人で受けて、立派な大人に育つはず。でももう一人の自分ともいえる存在で、確かにそこにいたはずのプレオンは、アルビレオの家から忘れ去られてしまうのではないか。そう思ったんじゃないかな?」
何も遺せずに死ぬのは嫌だ。それは、自分だけじゃない。自分の大切な人が、何も遺せぬまま死んでいくのも、それは自分のことのように辛いこと。
だからこそ、ミオンはプレオンとして生を全うしようとした。ミオンとしての人生より、プレオンとして生きることを選び、そして死ぬとき、自身として死んだ。
「一人の人生なんだ。僕らは、限られた人生で、何かを遺したいと思って生きている。それをミオンは分かっていた。だからプレオンとして何かを遺した人生にしてあげたかったんだ」
「……面白い意見だね」
「あながち間違いじゃないと思うけどね。実際、両親が亡くなった後は、彼女はミオンとして亡くなったんだろ? 君を殺さない為にさ」
「そっか、そっか……。もう一人のボクは、この世とボクを繋げておいてくれてた。だからボクはここにいる。……その解釈、気に入ったよ。考えつかなかったなあ、良い答えだ」
幽体の女の子は感心していた。
「あはは……そうか、だからボクは、片割れに生かされ続けた……そして、死ねなくなっていて……あはは、そうか、感謝しないといけないな、ボクの片割れに」
どうやら、幽体になっても涙は出るらしい。
それだけで、もう十分だと思った。
「だからさ、もう終わりにしようよ。最初から、こうすれば良かったんだ」
僕は石を握り込む。最後の仕事だ。墓石に彫られたミオンの名前、その一つに傷をつける。
「うあああっ、突然何だよ」
「ずっと死にたかったんだろ。ちょっとは我慢しなよ」
幽霊の身体がビクッと跳ねる。どうやら、墓石と感覚がリンクしているみたいだ。その光景を見ながら、がりがり、名前を落としていく。
彫られた文字は、とうとう読めなくなってしまった。
「おおぅ、ふふっ、面白いね。この感覚は何十年ぶりだろう。ようやく生を実感できたかなあ」
「一時の辛抱だよ。もう既に一緒のお墓に入ってるなら、今からでも君が死んだことにしよう」
石を握ったまま、僕は再び墓石に傷をつける。
がりがり、がりがり。墓石に触れる度――。
「ああ、痛い、痛いね! なんだこれ! あはは、なんでこんなに痛いんだ! ああっ!」
ひどい悲鳴を上げていた。刺激を感じながらも笑ってる幽霊を横目に、僕も笑顔で作業を続ける。これまでずっと感じていなかった刺激を、今ようやく感じることができている。さあ、今だ。存分に生を堪能してほしい。
そして、僕の作業が終わる頃――。
二人の名が刻まれた石の横で、幽体はぐったりと倒れながら、宙に浮かんでいた。
「うう……ひどいことするじゃないか。こんな痛みは幽霊になって、いや生まれて初めてだ」
「でも、それだけの価値はあると思わない?」
僕は墓石を指し示す。
「これで、二人が死んでいることになったでしょ」
僕の腕の指し示す先――。それが僕の答え。その先には、僕の爪痕が残っている。
ミオン・アルビレオと、プレオン・アルビレオ。
双子が一緒のお墓に入れられている証。
二つの死を、半分こ。
「あは、あはは、わあ、凄いや……凄い。ボクが死んでるよ!」
ミオンが引き受けてくれた死を、プレオンへ返してやっただけのこと。それでもプレオンは、興奮してその様子を堪能していた。
そして、次の瞬間。
「うわっ、なんだこれ!」
うっすらと、プレオンの姿が透明になっていくのが確認できた。
「凄いよ。こんなのって初めて! ねえ、これってもしかして、『死』なのかなあ」
「……多分ね。正解、したのかなあ?」
「見て、表現の幅が広がったよ!」
彼女は僕の身体をすり抜けて遊んでいる。もうすぐ死ぬというのに、もうすぐ別れがやってくるだろうに、なんでこんなに元気なんだろう。でも、それがこの子らしかった。
折角だ。僕も、ずっと思っていた疑問を投げてみる。
「それ、僕の身体の中見えるでしょ。……正直グロくない?」
「見ているうちに楽しくなっちゃったかな。これでも最初はえっちなことばかりしてたんだよ。スカートの中も、お風呂のお着替えも覗き放題!」
「……わざわざ言わなくて良いよ」
通報したくなってきた。死後の世界にも警察はいるのかな?
「しかも筋肉とか骨って、裸の更に内側じゃん。そう考えたらコーフンしてこない?」
「――それはかなりの変態だね。君が人に干渉できなくて本当に良かったよ」
「……ドン引かないでよ。なんも見えないよ。身体の中って真っ暗だもん」
彼女の言う通りなのだろう。鏡で囲まれた箱の中にいても、暗闇では自分が見えない。それと同じで、人体をすり抜けたとしても中身を覗けるはずがない。
出会ったばかりの時、彼女は僕の身体を覗き込んで『心臓動いてる』って言ったっけ。まあ、あれはハッタリなんだろう。なんだか安心した。
だから、僕は言った。
「実はね、なんとなく知ってたよ」
プレオンが、不思議そうな顔をする。この顔を見るのも慣れてきた。
「……だって僕には、心臓なんてないんだから」
「えっ」
首を傾げる彼女の前で、僕は精神を集中させる。
彼女にできることだ。なんとなくだけど、僕も念じてみる。集中して念力を加える。
すると、掴んでいたはずの石が零れ落ちた。そして、僕の身体は宙に浮かぶ。数センチだけだけど、足に感じていた地面の感触は完全に消えていた。彼女と同じ高さまで上昇して、彼女と目線を合わせた。
「僕も、既に死んでるんだよね」
幽霊が視えたときから、薄々気付いていたことだ。
こんな現象、科学で説明できてたまるか。
僕は心臓の病気だった。まだまだ成長途中の身体で、替えの心臓を探さないといけなかった。ドナーが見つかったが、身体に適合するのか望みは薄かった。だが僕が大人になって何かを遺すためには、それが唯一の望みだった。今の心臓でのタイムリミットが差し迫っていたのだ。
そんな状況があって、次の瞬間には何の痛みも感じずに立っていて、そこでプレオンと出会ったのだ。そんなこと、あり得ない。だから僕は死んでるのだと、何となく思っていた。あまりに希望のない話だけど。
おそらく本来の僕の身体は、移植手術中に拒絶反応を示したのだろう。新しい心臓を迎合できなかったということは、その心臓は僕のじゃないと判断したということだ。だからなのか、今の僕には心臓がない。何度も脈を測ってみてるけど、鼓動は全く感じなかった。
「理解しちゃったかぁ……」
「おかげさまでね。さあ、僕は君を殺した。奪った『死』を返してよ」
「えへへ、バレてたんだ。ごめんね」
彼女はイタズラがバレた子供みたいに、舌をペロっと出して笑う。
死んだ僕がこの世界に干渉できた理由は、いろいろあると思う。まず僕は、自分の『死』を認めたくなかった。僕はまだ何も遺せていなかったからだ。
そんなところを、彼女が僕の『死』の一部を奪った。それは彼女が言った通り1回のうちの0.001回くらい、そんなとこだろう。
だからほんの少しだけ、僕はこの世界に干渉することができ、だから彼女にも『死』を与えることができた。憶測ばかりで申し訳ないけど、結果から理由を推測するしかないんだから許してほしい。
「……僕はさ、君に感謝してるんだ。死ぬ前の僕は、大人になることに憧れた子供だった。ずっとベッドに縛り付けられて、大人にならなければ何もできないと思っていたんだ。唯一、窓から見えるアルビレオの飛行機に憧れていた。あんなのを動かして、僕が生きた証をこの世に残したいと思ってた。だから残り少ない命を楽しむより、将来を賭けて博打に挑んだんだ。だけど、その賭けには負けちゃった。そんな僕が、幽霊の君と出会って、ほんの少しだけだけど……このお墓みたいに、自分の爪痕を遺せたんだ。だから、ありがとう。僕の『死』をほんの少しでも、奪ってくれて」
長い告白の台詞。これが僕の本心だった。女の子は顔を伏せながら、目を擦る。
「――嬉しいな。良かったよ。ボクが最後に出会えたのがキミで。1回分なんてきっちり奪うよりも、よっぽど有意義な『死』になったと思う。ボクの人生、本当に楽しかった」
「僕もやっと、『死』を受け入れられた気がする。さあ、行こう」
「うん。ボクはね、もう一人のボクに逢いに行くよ」
僕は彼女の手を握る。彼女は頷いた。プレオンでもミオンでも、そんなことはどうだっていい。今の僕が手を握っているのは、双子と別れながらこの世界に存在し続け、僕が世界に爪痕を残すきっかけを与えてくれた、一人の女性なのだから。
この世でないどこかに橋が架かる。
僕と彼女は、この世界に別れを告げた。
~帝国暦2002年 この世界で最も人を虜にしたエンジェルラダーより~