Topologic Territory
Composer : Anzu Shirogane
「なぁ、ラケス君。君は私を成功者だと思うかい?」
年老いてはいながらはつらつとした白衣の男は私にそう聞いた。
「ペトロス先生。貴方のような偉大な人が何を言うんですか。私は尊敬しています」
私は心から思ってる言葉を返した。
彼の名はペトロス。世界で知らない人はまず居ないと言っても良い功績者だ。
彼が生み出したのはAPE細胞。
それは「さまざまな体の組織や臓器の細胞に変化する」という今の再生医療の柱ともなる存在だった。
彼が救った命は数知れず、人類の救世主と言えるだろう。
何より私はそんな彼に、憧れこの研究所へやってきたのだ。
「ラケス君」
私の言葉に先生は何とも言えない、見方によっては泣いてしまいそうな顔をして一言私の名前を呟く。
そして少し目の辺りに手を当て、少し俯いた。
暫くの沈黙の後に顔を上げてその手を離すと、その表情は落ち着いたものに戻っていた。
「今日は少し休憩にしよう。最近は忙しかったからね。君が来た頃にやっていたようにゆっくり腰を据えてお話をしよう」
その言葉に私は「はい是非」と言ってグラス二つに水を入れ、席へ向かった。
その内一つを先生の前へ置き、机を回って反対側へと座る。
「ありがとう。偶には普段と違う事も考えないと頭がかたくなってしまうからね。そうだな……」と少し考えるようにしてから、
「君はこんな話を知っているかな。木造の船でイメージして欲しいのだが、その船は長旅をしていた。そして停泊してメンテナンスを行った際に、老朽化している木材を新品の木材に取り換える事で船を維持していた。ある時、船に使われている全てのパーツが新しい物と入れ替え終わってしまった。この時この船は元の船と同じものであると言えるか、という話だ」
私はその話を知っていた、有名なパラドックスの一つだ。
「聞いた事はあります。そうですね……個人的には歴史的建造物の修復などでも思うのですが、それは実際の物が変わってしまうので"違う"というのが正しい。けれどそれらは変わらず"同じ"と名乗る事は出来るのではないかと」
「つまり、存在と認識で別の答えになるという事かな?」
「私はそう思っています」
なるほど、と先生は言うと、水を口に含み少し間を置いてから続けた。
「実のところ、私も似たような考えだ。船を修理してその船が100%の元の船でないからと言って、船のオーナーは同じではないからと船の所有権を失うなんて馬鹿な話はない。修理という行為があくまでその存在を存続させるために行っているからこそ、私たちは同じであると認識するんだとね。でなければ本末転倒も良い所だ」
そこまで言い切ると先生は残りの水をグイっと飲み干し、話を進める。
「さて、私がなんでこんな話をしているかというと、ではAPE細胞はどうだろうかという事になる。APE細胞というのは"適合者"から採取した体細胞を用いて作られている。つまり完全に赤の他人を自分の中に取り入れる訳だ。この場合も船と同じような認識が出来るだろうか」
その言葉に私は「出来ると思います」と答えた。
「先生、私たち人間の認識の面においてはそれぞれが唯一無二であり、代えがたい存在だと思う人が殆どです。船の例以上に認識的には同じであると考える人が多いと思います」
私の言葉を聞くと先生は再び静かになった。
先程よりも長く、重苦しい沈黙がそこから続く。
一体どうしてしまったのだろうか?今日の先生はどこかおかしかった。
そう思っていると暫くして、先生はゆっくりと口を開けた。
「私はね。分からないんだ。自分が」
どういう事だろうか。
「すまない。本当はこんな話無意味なんだ。私が話したいのはこういう事じゃない。だけどね。私はラケス君に尊敬された私でありたいんだ。私が私じゃなくても」
そう言うと先生の身体は椅子の上でゆらりと揺れる。
倒れそうにはないが、体調が悪い可能性が非常に高い。
「大丈夫ですか?調子が悪いなら診察室に行った方が……それに私は先生を尊敬していますよ。もしかしてAPE細胞で治療されたのですか?そうだとしても先生は先生ですよ」
私がそう言うと先生は突然笑い「体調が悪い訳じゃないんだ」と言って心配する私を制止した。
「……APE細胞が"適合者"から採取した体細胞を用いて作られている。これはさっき話した通り、君も知っている話だ。だが一つ疑問に思った事はないか?何故APE細胞を作ることが出来たか。君なら分かると思うが"適合者"に身体的特徴は特にない。血液などの検査で分かるものでもないのだ。どうやって私が見つけたか。疑問に感じた事はないか?」
「それは……先生の研究努力の結果だと私は…」
「違う」
さえぎる様に、先生は強くそう言った。
「答えは違う。APE細胞はAPE細胞自身が架空の"適合者"から作れるものだと見せている、言わば演技だ」
「え…」
思わず漏れた声。
何を言っているのか、理解が追い付かなかった。
細胞が演技?
話の急な展開もそうだが、言っている内容も滅茶苦茶だ。
「待ってください、それは何の冗談ですか?」
私は辛うじて最もあり得る可能性にかけてそう言う。
しかし、先生は決して冗談ではなく本気の目と語気でそれを否定する。声は震えていた。
「冗談などではない、APE細胞に関する情報はほぼ全てでたらめだ。あれらはAPE細胞自身が人類に便利な木材であるために見せかけた虚像なのだ。"適合者"の体細胞?違う。そう言う体裁が必要だっただけだ。APE細胞の本来の姿は人間に同化し寄生する存在だ。彼らは本来が別の物でありながら寄生先の人間に完全に同化し、必要な機能として働く。厳密には細胞ですらない。私が世にAPE細胞として広めたのはそう言った、化け物だ」
「待ってください!仮に先生のその話が本当だったとして…現に私たちはAPE細胞のお陰で大きく発展した再生医療の恩恵を受けています。現場で利用されるようになってからもう4年は経っているんですよ?それでいて大きな問題は起きていない。APE細胞と人類は共生していける可能性のある存在で、化け物と切り捨てるには早いのではないですか?」
そう、この話が真実だったとしても、と私は思った。
APE細胞が救った命は数知れない。仮に寄生生物の類だったとしても今日に至るまでバイオハザードは起きていない。
嘘みたいな話を全てひっくるめてもAPE細胞は人類の味方である、と言えるのだと。
だが彼は首を横に振る。
「私もある時までそう楽観していたんだ」
彼は立ち上がる。
そして部屋の中をフラフラと歩き回りながら話を続ける。
「そもそも"適合者"の体細胞由来というのがフェイクだとすれば、APE細胞と呼んでいるアレらはどこから来たか。アレはね、Srpouinarという地にある超古代文明の遺跡で見つかった。そこを調べていた考古学者の一人とは旧友でね。彼は遺跡の中、ではなくその周辺から小さな木乃伊を発見した。と言っても腕だけしか残っていなかったんだが、どうにも不自然だという事で見て欲しいと頼まれたのが全ての始まりだった」
彼はAPE細胞について話している、はずだ。
私はこれまでAPE細胞に関する情報を深く知り、理解してきていたつもりだった。
だが、今APE細胞の生みの親である彼は真実のようにその全てと違う事を話し続けている。
「本来は遺跡に関する代物はその場所からの持ち出しを禁じられているんだが、あくまでも周辺で発見したという事で特別に許可が下りた。そして彼が持ってきたそれを見てとても驚いた。なんとその腕は一切の劣化が見られなかった。上腕骨の半分辺りから先しかなかったが、何か強い力で千切れたように見えるその断面部分以外の腐敗は見られなかった。第一に、超古代文明というほど昔の木乃伊が肉を残していること自体が不自然だった。最初は厳重に、警戒しながら調べを進めた。だがいくら調べても不思議な事に何も出てこなかった。それはごく普通の10歳程度の人間の腕としか認められなかった」
私がこれまで突き詰めてきた理屈とは程遠い、フィクションの世界の話を自分の師は話し続ける。
悪い夢を見ているのだろうか?
もうやめてくれ。
そう願えど言葉にする事が出来なかった。
酷く喉は渇き、私も先生と同じように水を飲み干した。
私はこの異常な空気に飲まれていた。
「最終的に私たちは木乃伊本体が特殊なのではなく、遺跡自体が何らかの力を発揮していたのではないかと結論付けた。であればそこから先はもう私の専門外。、数日の内に木乃伊を隔離ストレージに引き取ってもらって私の仕事は終わり、そのはずだった」
彼は、ペトロス先生は、自分の右腕を見つめ、次の瞬間。
「だが終わりじゃなかった!」と急に大きく叫ぶとその腕を思い切り机に叩きつけた。
置かれていたグラスが跳ねて倒れ、転がり落ちるほどの強烈な衝撃。
余りの事に身体がビクリと驚く。
パリンとグラスが割れる音に気を取られ、改めて彼の方を見ると彼の腕は真っ赤に、そして歪んでいた。
「先生!!」
私は先程まで声すら出せない程に身体を締め付けていた異常な空気を打ち破る様に立ち上がった。
頭で考えるよりも自分の尊敬する師がこれ以上壊れるのを止めたくて仕方がなかった。
先生は苦悶の表情を浮かべながらその腕を私に見せる。
「見たまえ!ラケス君!これがあの日の木乃伊の正体だ!!」
そうしてこちらに向けられた腕は、グニャグニャと歪んでいて……違う。
グニャグニャと歪みながら真っ直ぐな元の腕に戻った。
ガタン!!
私は恐怖のあまり後退りし、座っていた椅子にぶつかり転んだ。
彼は本当に自分の知っているペトロス先生なのか?つい数分前まで信じていた認識が崩れる。
知っているはずの彼に私が向けたのは、未知への恐怖だった。
「木乃伊は遺跡の力で保存されていたのではない。APE細胞が長い年月その姿を変えないことが不自然だと理解していなかったんだ。私はね、あの日あの木乃伊に擬態してたAPE細胞に、乗っ取られてしまったんだよ。木乃伊を引き取ってもらうはずの日、忽然と木乃伊は姿を消した。友人と隅々まで探したが見つからなかった。やはり遺跡の力で不思議な事が起きていて、その影響力外に持ち出してしまったから、と彼は肩を落としていたよ。実際は木乃伊である必要が無くなっただけだったというのにね。暫くの間は何も気付かなかった。しかしある日右手を怪我してしまった時。私は自分の腕が既に自分の物ではなくなってる事に気が付いた。先程のように超再生を見せたのだ。それを見た時すぐにあの木乃伊が原因だと気付いた。感染経路は分からなかったが、何らかの形で同じように再生能力を得てしまったのだと。普通ならこの時は私は…」
そこまで言うと彼は言葉に詰まる。
「…いや、ここから先の"私"は私自身が脳で考えて発しているはずの言葉という程度に捉えて欲しい。普通ならこの時私は、しかるべき機関に連絡をし、自らを隔離する選択をするべきだと。今なら思う。しかし当時は違った。私はこの超再生を再生医療に役立てることが出来ないかと考えた。後はもう分かるだろう?感染者……表向きは"適合者"としての私の腕からAPE細胞が採取され、本来不要である工程を経て、まるで人類の救世主のような顔をすることが出来るのだよ。APE細胞は間違いなく、寄生した人間を介して世界を見ている。だから私の都合に合うようにそうした工程を敢えて用意してみせた。そう、私は彼らの繁殖に利用されたんだ。その為に都合が良い形で、取り返しがつかなくなるまで、私を騙し続けた」
取り返しがつかなくなるまで。
最早彼の言葉を疑うことは出来なかった。
であれば本当に全て終わってしまっている事なのだろう。
心が折れてしまったように私はもう何も言う事が出来ずにいた。
未知への恐怖、人類の危機、尊敬への裏切り……
もう何に悲しんでいるのか、自分でも分からないまま、泣いていた。
「君は私の事をよく尊敬していると言ってくれたね。ありがとう、とても嬉しかった。そして、騙して申し訳なかったと思っている。私は尊敬されるような存在ではない。化け物だ。化け物を広めた化け物なのだ。それでも私は最後まで人間であろうとした。APE細胞に抗うために徹底的に調べ続けた……だが、それも無駄だった。ああ!無駄だったんだ!……無駄だったんだよ。対抗策が見つかるどころか、新たに分かったのは最悪の事実だった。それはAPE細胞の持つ最も危険な性質。長い時間をかけて人間を丸ごと、APE細胞自身に置き変えていくという事だ。……そしてその進行を計算した結果、第一のAPE細胞感染者である私が、100%APE細胞に置き換わるのが今日」
私の前に立っている"それ"は、笑っているような顔で涙を流しながら私に問いかけた。
「なぁ、ラケス君。APE細胞を利用しようとし、利用されていた私は、既にペトロスではなかったのだろうか。私はいつまで元のペトロスだったのだろうか?APE細胞に置き換わった今も残る、この後悔と絶望はなんだ?まだ、私はペトロスなのか?この意識は誰のものだ? ――私は何者だ?」
-タルコス研究所 第一資料室にて-