Τιτανομαχία
Composer : Mi4 feat.Halv
……ユーフォリア帝国とユースデイア国。この二国の争いの歴史は、古くは帝国暦元年まで遡る。建国当初の帝国では、東側における諍いが絶えず起こっており、その多くが版図を拡大中であったユースデイア国軍との衝突であった。帝国東部の国境が、年々その正確な位置が変わりながら後述する戦争にて今日の国境線として落ち着いたということは広く知られており、ユースデイア国との文化融合の例は特に東部で多く見られるだろう。食事、服装、生活様式など、地域特色というには西側とあまりにもかけ離れたものが多く、帝国西部出身のものが東部に来た際にはそういったことにまごつくことがよくあるという。
さて、そんな二国であるが、これまでの二千年の歴史の中で数多くの衝突を繰り返しているとは先ほども述べたものの、そのほとんどが地域紛争にも満たぬ小競り合いであった。そんな中、一度だけ長期間にわたる全面戦争となったことがある。それが諸君もご存知の通りの、帝国暦1849年タイタニア戦争だ。歴史の授業では必ず耳にする機会もあるだろう。
以下、概要を述べておく。
1848年の東部国境紛争の賠償を請求していた帝国に対し、その請求をすべて棄却したユ―スデイア。帝国内世論も後押しとなる形で、1849年の1月には帝国側からユースデイア国に対して「宣戦布告」が行われた。ユースデイア国がこれを受理すると、東部地域の緊張感は一気に高まることになった。宣戦布告時から疎開を促していたノルーセン市とその周辺農村には、戦争用の備蓄や食料供給のための拠点が整備されることとなり、疎開した子供や女性を除く国民がこれに従事したという。戦端が開かれたのは宣言から実に一週間後のこと。帝国は軽戦車などの火力による面制圧を中心に横に広く展開し、ユースデイア国側の平野部を次々と攻撃した。相手国も火力の投入はもちろんのこと、ゲリラ兵を多数用いて応戦。両国の一歩も引かぬ状態は、そのまま半年続くこととなる。7月に差し掛かるころ、帝国側が火力を一点に集中させる作戦に出たことで戦況は変化し、これによりユースデイア国の前線を約40マイル後退させることとなった。火力の一点集中は帝国の守りが薄くなるデメリットもあり、軍の会議でも慎重に議論を重ねたうえでの決断だった。
40マイル前進した帝国軍は、地形の変化により戦法の変更を余儀なくされた。なだらかな平野部から山岳地帯となり、ユースデイア側のゲリラ的な戦い方に有利となったからだ。7月末から進入したこの地域での戦果が芳しくなく、苦戦を強いられていた前線司令に対し帝国軍本部から「谷を啓開してでも突破しろ」と伝令が入る。峡谷の左右を火力を用いて削り取ることで、ゲリラに対し有利に戦況を進めた。前進速度を下げる代わりに、火力により森林と峡谷を徐々に啓開しつつさらに20マイル程ほど進軍。山岳地帯を抜け再び平原に差し掛かると、退却していたユースデイア国軍が本陣を構えており、再度の衝突となった。ここまでのユースデイア軍は少数のゲリラ兵による攻撃という嫌がらせが中心だったが、それとは打って変わって重火力攻撃が中心となった。帝国軍は狭い峡谷を啓開しつつ進軍してきたばかりであり、部隊を横に広げることもかなわない状況で多数の火力攻撃を浴びることとなった。
最前面が壊滅的な被害を被ったことにより峡谷部分まで後退することになった帝国軍は、虎の子の長距離砲を後方から前線に移動させ運用することになった。このころの長距離砲はまだ弾道計算等の技術が発達する前であり、後方で運用することにより味方へ被害が出る可能性があったため、運用に関しては慎重になっていた。ただ、目視できる目標に対してであれば、その抜群の質量の砲弾と弾速により打撃を与えることが期待できた。結果として長距離砲にによる火力支援により相手の戦力を減らすことで、ここでも帝国側が有利に戦況を進めることができた。
だが、その平原から先へは帝国軍は前進できなかった。諸君もご存じの通り、ユースデイア国が誇る天然の要塞である霊峰、「ギンレイ」があったからだ。この険しく横に長い山脈は、そこに住まう者以外では容易に越山することは難しく、ましてや火力兵器を運搬しながらの移動など不可能に近い。その理由は気温と傾斜角度にある。ギンレイは別名「白太刀」とも呼ばれるほどその尾根が切り立っており、標高も大変高いことから山頂付近は常に氷点下の気温となっているため、越山どころか生存することすら厳しい場所である。現在も多数の登山家があの山に挑み、毎年数人の行方不明者が出ている。もちろん今日ではギンレイにはトンネルが開通しており、高速列車が運行するルートとなっているのは、諸君らのよく知るところである。
結果的にギンレイの麓まで進軍した帝国軍は、そこでの立往生を余儀なくされた。一方で、ギンレイ以東まで押し返されたユースデイア国も、これ以上の戦争継続は困難であるとして、1850年1月に「和平交渉」に入ると宣言し、戦争は一時中断された。
そして1850年2月の「タイタニア講和条約」の締結とともにこの戦争は終結した。
年表に起こすとこのようになる。
1848年 東部国境紛争
1849年1月 ユースデイア国に対して宣戦布告、タイタニア戦争開始
1849年7月 帝国が40マイル前進し、タイタニア平野を獲得
1849年9月 トウラン山地を啓開しつつ前進
1849年10月 ショウホウ平原にて敗北、トウラン山地へと撤退
1849年12月 長距離砲による火力支援のもとショウホウ平原を獲得
霊峰ギンレイ以東への進軍断念
1850年1月 ユースデイア側からの和平申し入れ
1850年2月 タイタニア講和条約の締結
タイタニア講和条約では、ギンレイ以西の領土の獲得、賠償金の請求、不可侵条約の制定など、帝国側に有利な条件で講和を行うことができており、帝国が最大版図を実現した瞬間でもあった。
この戦争のポイントは、「近代の火力戦争ではまだ飛行兵器は出てきておらず、地形を問わない戦い方はできなかった」ということにある。それゆえ、現代のように爆撃機などによる攻撃はまだできなかった、ということだ。飛行兵器や誘導ミサイル、核兵器などが実用化している状態であれば、この戦争は両国に少なからぬ打撃と遺恨を与えていただろう。軍事学の授業の意義とは、「二度とこのようなバカげた出来事を繰り返さない」ようにさせることにある。先週も伝えたが、君たちが歴史から学べる賢者であることを祈る。
さて、今回はここまでとしておくので、次週の授業までに添付ファイルのとおりレポートを提出するように。以上。
~ある大学のオンライン授業の一コマ~