The purge of punctuated equilibria
Composer : BJ.chika
私はかけ離れた歴史を繋いだ――。
見えない鎖の環ではなく――王のゆびさきによる裁定で――。
より優れしものに我等が迫るならば――劣れるものは我等に迫る――。
さもなくば、混沌は空漠を生み落とし――道を誤りて――大いなる秩序は脆く砕かれるだろう――。
自然の連鎖より環を一つ打ち落とせば――それがどれほどわずかであったとしても――すべてが壊れて崩れ去るのだ――。
……では、劣れるものがわたしたちに迫るとき、わたしたちがより優れしものに迫っていなかったとしたら、どうすればよいのか?
そう、より優れしものにわたしたちが近づける世界を、造ればいいのである。
どのように?
――イェドの祝福さえあれば造作も無いことである、わたしはそう気が付いた。
わたしはいつかどこかで、主の声を聞いた。
「『神のゆびさき』たれ」と慈悲深き声はささやいた。
失われた環の真実を知ってしまったということは、すなわち「神のゆびさき」となること。
「神のゆびさき」が何かを理解する前に、そういう定めなのだと思い、わたしは声を受け入れた。
それが全てかは分からないが、声の言うことが確かなら、「神のゆびさき」――もっと簡単に言うと、歴史と文明の裁定者――は、「時空を客観視し、それを操作する」という特異な能力を与えられるのだと、推察する。
時空の客観視とはどういうことか?
たとえば……わたしたちは3次元空間を生きる存在だ。3次元空間の存在は、誰でも2次元を客観視できる。
地図に例えてみよう。
わたしたちは平面に広がる道路、つまり2次元の地図を上から見て、目的地までの経路を客観的に判断することができる。大きさにもよるが、上から見ている限り経路を見失うことは無い。では、前後左右、そして上下に広がる立体空間、すなわち森や建物、洞窟などにおいてはどうだろう? おそらく実際に突入しなければ、つまり主観的な判断によってしか、出口までの経路を判断することができない。あるいは、さっき述べたように2次元の図面、すなわち地図を記すことになる。
空間を客観視するということは、3次元を客観視するということである。2次元を3次元空間から客観視できるように、3次元は4次元空間から客観視できるようになる。同じように、どの次元なのは定かではないが、時間を司る次元のひとつ上の次元からであれば、時間も客観視することができるのだ。感覚的には、過去から現在そして未来、すべての場所で起こる出来事が、平面や空間で認識できる、ということだ。
それを「操作する」ということは、いつどこで何が起きたかを書き換えること……すなわち歴史の改編に他ならない。
神が守りたい歴史や人類にふさわしくない発展の芽は、即座に裁定の対象となる。発展が急速に進む時代と、その後人類が次なる発展に相応しい存在となるまでの長い長い平衡状態を、意図的に作り出す。なるほど神はそのようにして、文明の進歩を制御し続けていたというわけである。
失われた鎖の謎はおろか、鎖自体が無かった、とはそういうことである。人々は幻を夢見ながら、探りながら、生きているのだ。
刹那、鎖を追い求める者から、虚ろの鎖を作り出す者へ――わたしの存在は、静かに、しかし大きく、流転する。
確かな自我の変質を感じた彼女は、神の定めた理に外れるモノに出会うため、どこへともなく歩み出す。
ふと「見渡せば」愛すべき人がいた。彼女は――「神のゆびさき」に選ばれた少女は何を思うのだろうか。
「もう、会えないのね。」