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Satanic Re:ReVengers

Composer : ADA

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1752/YY/ZZ ○○新聞

 

 兄失った放火魔の少女、死刑執行へ

 

 異端者ジャンヌ・アンドレウス(12)の死刑が執行された。少女は先月より世間を震撼させていた連続放火事件の犯人であり、宗教裁判にて絞首のち火刑が言い渡されていた。

 少女の兄は、一年前の鉱山崩落事故で労働者らを虐殺したとして異端告発されている。判決に不満を覚えたのか、少女は教会に火を放ち善良な市民を無差別に殺傷していた。

 公開処刑には大量の見物客が押し寄せていた。死刑執行人が少女の亡骸に火を点けると、業火が少女を包み、身体は跡形もなくなる。地獄の番人が少女を迎えに来たのだと、広場は大きな盛り上がりを見せていた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――と、まあ。ここまでが、新聞の記事なわけで。

 

 これが前提知識、表向きの話だ。

 

 死刑は確かに執り行われた。そこは間違いじゃない。

 幼き大量殺戮者は処刑され、悪魔の一族は滅んだ。民の元に平和が戻ったのだ。街は安堵の息を吐き、やがて歴史学者やジャーナリストが、この記事を後世に語り継ぐだろう。

 

 だが、現実は少しだけ違うようだ。

 俺は新聞を投げ捨て、目の前の少女に目を移す。

 

「コイツか……」

 

 普段は俺しかいない、ボロの家。ベッドの上で、少女が一人眠っている。栗色の髪と、色素の抜けた白い肌。これが死人と言われても、信じてしまいそうだ。

 俺は彼女の名前を読み上げる。

 

「――ジャンヌ・アンドレウス」

 

 齢12にして死刑を命じられた少女は、子供らしく寝息を立てている。

 こうして見るとまだガキだ。出るとこも出ず、痩せ気味で手足は細い。公衆の面前で火炙りにしなくとも、首を絞めれば今にでも殺せる。

 

 こんな小さな女の子が、次々と教会に火を点けたというのだから驚きだ。

 

 ふと魔が差した。手を首にかけてみようか。呑気に考えてみる。

 無防備な子供の細い首に、両手も必要ない。片手を少女の首に沿える。このまま気道を抑えつけるなど、容易いこと。不意に口角が上がる。

 

「……ねえ」

 

 いつの間にか彼女の目が開いていることに気付いた。俺は手を引っ込める。

 宝石のような瞳だった。美しい亜麻色。だがその瞳には光がない。誰にも持ちえない良い色をしておきながら、その瞳は輝くことを忘れてしまったかのようだった。

 

 ジャンヌ――処刑されたはずの少女は、抑揚のない声を発する。

 

「……どうして、生きてるの?」

 

 瞳をこちらに向けることなく、ジャンヌは真上を見続ける。どこか遠くを見つめているのか、それとも目を開きながら何も見つめていないのか、俺からは分からない。

 

「混乱してるか? そりゃそうだよな。ジャンヌ・アンドレウス、おめえは選ばれた……。だからこうして、今でもと生きてやがる」

 

 俺は下唇を噛んでから続けた。

 

「とはいえ、初めましてだ。俺はサミュエル・メディーラン。この街の死刑執行人だ」

「知ってるわ」

「……どうも」

 

 どうやら俺は有名らしい。それもそうだ。俺の家系、メディーランといえば、教会と結びついて代々死刑執行を執り行っているお家柄。年に数回は行われる公開処刑で、群衆の注目を浴びている。怖いもの見たさに足を運んでいれば、俺の顔は必ず目にするはずだ。

 俺の日焼けして黄みがかった肌は、街中では珍しい。何度か見ればすぐに覚える。

 

 この子も、人が死ぬ見世物を何度も覗いているのだろう。

 

「それで、どうして生きてるの?」

「ああ、話を遮って悪かったな。驚くがいいさ。おめえを助けろっていう通達が――」

「そうじゃない」

 

 説明を遮られ、怪訝にジャンヌの瞳を見る。吸い込まれるような闇にぎょっとする。

 俺への蔑みの眼。俺を対等な人と認識していないかのような表情。

 

「あなたは、私の兄さんを処刑した。そんなあなたがどうして今も生きてるの」

「俺のことかよ……」

 

 思わず舌打ちが出る。この子は最初から、敵意しか向けてないのか。

 寂しい女の子だと思った。

 

「俺は俺の為に生きているだけさ。赤の他人なんて知ったことか」

「……そんな自己中な人間に、兄さんは殺された――殺す、あなたを殺す!」

 

 蝋燭の灯が揺らめく。

 突如、ジャンヌが布団をめくり上げた。身体全体で俺に飛び掛かる。

 不意を突かれ、タックルを食らった俺は床に転がった。

 両手首を握られた。馬乗りになったジャンヌの光を失った眼が俺に突き刺さる。

 

「あなたも、殺す」

「……落ち着けよ。少しは互いのことを知ろうぜ?」

「どうでもいい。衝動が収まらない。あなたを殺さなければ気が済まない」

 思ったよりも強い力だった。きゅうきゅうと手首が締められる。ジャンヌの鬼気迫る表情に、多少なりとも恐怖心を煽られる。

 

 ――だが、所詮ガキの力だ。

 俺は脚に力を入れ、彼女の軽い身体を浮かせる。緩んだ握力の隙を突き、今度は俺がジャンヌの手首を握り返す。馬乗りのまま身体をひっくり返すと、あっという間に形勢が逆転した。当然の帰結だ。

 

 ジャンヌは目を見開いたまま、つまらなそうに俺の顔を見つめていた。抵抗の声も、悲鳴もない。恐怖を覚える感情でさえ、失くしたかのようだ。

 

「あまり舐めんなよ。こっちは普段から死刑囚を相手にしてんだ。ガキごときの力で勝てると思うな」

 

 握ったままジャンヌの手首を捩る。かなり痛いはずだが、ジャンヌは顔を歪めない。力を加えても、ジャンヌはびくともしない。

 

 気味の悪さに、俺は力を緩める。

 

「殺さないの? あなたは、わたしをこのまま殺すべき。……私みたいな罪人を殺すのが、あなたの仕事」

「殺すの次は殺してかよ……。今にも殺してやりてえが、それもできねえんだよ。言ったろ。おめえを助けろっていう連絡が入った。おめえには生きてもらう」

「どういうこと」

「どこぞの貴族がおめえを飼いたいんだとさ。外見だけは可愛くて助かったな」

「……そんなの、どうだっていい。この世界が憎い。アレが憎い。今すぐ殺して」

 

「あ? 勘違いしてたらわりぃけど、安心しろよな。体を売れって話じゃねえ。だいたい、ガキのおめえにそんな価値があるかってんだ」

「そうじゃない。ただ、生きてることが憎い」

「なに今更罪悪感感じちゃってるわけ? それとも、地獄に落ちればお兄さんに会えるーなんてメルヘンなこと考えてんの?」

 

「――じごく?」

 

「知らねえはずねえよな? この街に暮らしてりゃ、神さまが――」

 

 パシッという乾いた音がした。頬に痛みが走る。平手打ちを食らったみたいだ。

 ジャンヌの腕を解いた覚えはない。いつの間にか、解かれている?

 

「おめえ、いつの間に――うがっ!」

 

 言葉を発しようとした瞬間、首元に激痛が走る。

 抑えつけるというよりは、ピンポイントで気道を塞がれるような感覚。

 ジャンヌの全体重が、俺の首元を圧迫していた。

 

「……ゥァッ、ォッ……」

 

 俺は、声にならない声を出し、足元を動かし続ける。腹筋で起き上がろうと試みる。だが圧迫感は無くならない。少女の身に余る力が俺を殺そうとしている。

 

「――神さま? そんなの、いない。天国も地獄もあるはずない。この世界には、何もない。どうして、あなたが生きているの。兄さんを殺したあなたが、どうして今もこうして何も悪びれることもなく生きていられるの」

 

 ジャンヌの瞳を見る。端的に言って、それは美しかった。

 そこにある瞳は輝いていない。それは光を吸い込むような闇だ。

 

 彼女は闇を輝かせていた。本当に悪魔が乗り移ったようだった。

 

 ――息ができない。このままだと、死ぬ。

 

 必死であがく。歯を食いしばって、両手を首元にもっていく。俺の首を絞めつけるジャンヌの腕を、俺は力いっぱい握りしめた。だが腕は離れない。ジャンヌが痛みを感じないのか、呼吸のできない状況で力が入らないのか、俺の行為は無意味だった。ジャンヌは光のない眼差しを俺に向けるだけ。どうにもならない。生まれて初めて、死を覚悟する。

 

 死ぬ……?

 ――いや、まだやり残す事は、残っている!

 

 俺は力を込めた。遠慮はいらない。ジャンヌの細い腕が千切れるくらいに、力強く握りしめる。一瞬だけ空気が肺に流れ込んだ。その僅かな隙で、俺は声帯を震わせる。

 

「俺だって、神なんか信じちゃいねえよ!」

 

 そう言った瞬間、不意にジャンヌの腕が緩んだ。力が抜けていくのを感じる。力を入れると、彼女の身体はあっさりと吹っ飛んだ。壁に思い切り背中をぶつけ、後頭部をぶつけると、まるで動かない人形のように、倒れ込んだ。

 

 闇を放つ瞳は、もう瞼に閉ざされてしまった。

 部屋の中で、俺の荒い呼吸音だけが響いていた。

 

 ジャンヌを殺すわけにはいかなかった。彼女を生かしておけという指令が入っている。仕方なくベッドに寝かせて、俺は待ち続ける。

 

 しばらくすると、ジャンヌは大人しく目を開いた。

 

「――起きたか?」

「……どうして、生きているの?」

「言ったろう。おめえは選ばれたから生きている」

「そうじゃない。あなたのこと」

「……こんな穢れた俺にも、まだやることは残ってんだよ。それだけだ」

 

 ジャンヌが身を起こそうとするが、苦痛に顔を歪めた。

 

「っいたいっ……!」

 

 ジャンヌが両腕を見る。初めてジャンヌに人間らしさを感じた。両手首には、強く掴まれた痕が痣になって残っている。

 

「……わりぃな。ちょっと痛みが残る」

「ううん、あなたは悪くない。でもひとまず、これだけは言っておく。私の前で『存在しないもの』の名前は言わない方が良い。いつまたあなたを襲うか分かったものじゃない」

 

 存在しないもの……ああ、要するに、神さまとかいうやつか。

 要するにこの子は、その手の単語を聞くと豹変してしまうというのか。

 

 ――まるで、悪魔のように。

 

 にわかには信じがたい。だが、本当に悪魔に心を支配されているかのような変わりようだ。

 

「安心しろ。この街で暮らしてる俺でもな、その『存在しないもの』は信じちゃいねえんだ。俺は誰も、何も信じてねえ。俺は俺自身しか信じることはねえ。今の今だって、おめえすら信じることはねえよ」

 

「なら良い……。わかったでしょ。わたしがどうしようもない人殺しだって……。このまま、殺して」

 

 ジャンヌは相変わらず遠い目をして言う。何も信じていないのなら、それは、地獄で罰を受けたいという意味でも、死後の世界で兄に逢いたいという意味でもないのだろう。

 

 だとすればそれはただ、この世界から消え去りたいという願望だ。

 くそ、まんま俺じゃねえかよ。

 だから、打ち明ける。

 

「ジャンヌ。誤解してるようだけど、一つ言わせてくれ」

「ん?」

「……おめえの兄さんは、生きてるぜ」

「えっ」

「なんてことねえ話さ。死刑執行の時、おめえと同じ方法で助けた。……だから、互いにまだ生きてんだよ」

「今、どこにいるの」

「街はずれの屋敷さ。今からおめえもぶち込む予定だ。だから今日は、目いっぱい休んどけ。明日の夜、出発する」

 

 ジャンヌはぼうっと、虚空を見つめていた。

 そして次の瞬間、彼女の頬を伝う雫があった。

 

「えっ、あれ、え、え」

 

 心よりも先に、身体が驚いているみたいだった。

 

「なんだ、信じるのかよ」

「じゃあ、ウソなの」

「ウソじゃねえよ。でも、そんな口先だけの言葉、信じるってんのか?」

「うん、あなたはウソ言わないって、なんとなくわかる」

「なんだよそれ」

 

 子供はウソが分かるというが、まさかそんなことはないだろう。

 だったら、神さまは信じないのに、俺のことは信じるのか。おかしな話だ。神だの悪魔だのかこつけて都合の良いことばかり信じたがる愚民と、何ら変わりない。

 

 でも、そんなことはどうでも良いことだ。俺の仕事はこいつのお守りじゃない。こいつとは『楽園』までの関係だ。それ以降の人生なんて知ったことか。

 

「――少しは、死ぬ気もなくなったか?」

 

 ジャンヌは無言でコクリと頷いた。

 それ以降、ジャンヌの口から「死にたい」なんて言葉は出なくなった。

 その様子を見て、ふと思い返す。彼女の言葉、首を締めながら発していた彼女の言葉。

 

 ――どうして、生きているの?

 

 何故かって、それは俺も、同じことを思っていたからだ。

 

 ――どうして、罪なき人々を殺戮したおめえが、今ものうのうと生きてるんだよ。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 ジャンヌを家に残し、俺は外に出る。

 特に彼女を信じる気になった訳ではない。だが、逃げ出せばすぐに街の人間に見つかって大騒ぎになる。そんなことはガキの頭でも容易に推測できるだろう。

 

 それに、ジャンヌはちょうど、この世界に希望を見出したところだ。一人で気持ちを落ち着かせる時間は必要、あの様子ならジャンヌは逃げないだろう。

 

 教会の十字架が太陽光を反射して、鋭い光が網膜に届く。

 それは、この街の神の力を表しているようで、俺は辟易していた。

 

 俺はここで、死刑執行人として生きている。街とはいっても、都市からずっと離れた小さな村社会だ。領主のような権力者の言うことは絶対で、気分次第でどうにでもなる。歩く人間は大抵名前も仕事も割れた仲間同士。輪に溶け込めなかったら、村八分確定だ。

 

 街の人間は大抵俺のことを知っていて、無意識に俺を避けるように歩いてく。人殺しには触れたくないんだとさ。通りを歩くときは、何故だか俺自身が罪人であるかのような気分になったりもする。

 まあ、俺を避ける連中も、公開処刑の度にお祭り騒ぎする程度の趣味なんだろうが。

 人間は愚かなものだな、そう思いながら、とある店の扉を叩いて中に入った。

 

 蝋燭の暖かな光が、店内を照らしていた。中には大勢の「人」がいる。腰かけてビールを飲む若者、立って会話する貴婦人、弦楽器を弾いて歌う吟遊詩人……。だが、これらは全て偽物だ。等身大の人形が、一室の中に所狭しと並べられている。

 感情を込めて創られた人形は意志を持つ、なんて話を聞いたことがあるが、この店内の人形は、今にも意志を持って動き出すかのように見えた。

 

 その中で、実際に動いている女性が一人。

 

「いらっしゃいませ~、人形のお店ルミエールへようこそ」

 

 規則的に機織り機の音を響かせながら、金髪の女性が声を上げた。

 

「俺だよ。サミュエルだ」

「まあ、サミュエル!」

 

 顔を上げた女性――レティシアは、俺を見るなりにっと口角を上げた。

 

「ねえねえ、元気してた? 精神状態は安定してる? 怪我はない?」

 

 矢継ぎ早に質問を重ねてくるが……これは俺への質問じゃねえな。

 

「うるせえっての、少しは内密にしろよ。こっちだってギリギリのことしてんだぜ?」

「だって待ちくたびれちゃったもん。全然連絡なくてしょぼ~んだったんだよぉ……。もうずーっと気分転換でお人形さんのお洋服作ってんたんだからぁ!」

「ああ、随分と賑やかになったもんだな……」

 

 店内に飾られている人形は、全部レティシアが作ったものだ。バーの店内を丸ごと再現する程度に暇なのか、それともこれも一種の職業病というやつなんだろうか。

 

「それでそれで、お仕事って上手くいったの? 今回はかなり大変だったーって聞いたけど……見物のお客さんも前よりずーっと多かったんでしょ?」

「そんなこと、俺がここに来てるんだから分かるだろ。せっかくおめえが寂しい思いをしてると思って、わざわざ会いに来てやってたんだ。少しは休憩させてくれよ」

「えーっこれじゃ生殺しだよぉ。もったいぶらなくて良いから。ねえねえ早くぅ」

 

 のんびりした口ぶりとは対照的に、レティシアは説明を急かす。気に入らねえ女だ。まあ、そんな狂った人形愛が彼女を成功者に導いたのだろうが。

 

「しょうがねえな。ちっとは落ち着けって。『人形』が心配な気持ちも分かるけどよ」

「だってだって、あの子、すぐ死んじゃいそうだもん! あたしのお人形さんとして、屋敷にずーっと飾っておくんだよ? 気になるじゃんかぁ」

「分かってるって。ジャンヌは安静にしてるから安心しろっての!」

 

 本人がここまであけっぴろげに言うのなら、俺も適当にぼかす必要もない。

 

 このレティシアこそが、俺のクライアント。

 ジャンヌの首の皮を繋いだ、張本人。

 彼女の言う「人形」とは、まさにジャンヌそのものだった。

 

「まったく、相変わらず、死罪から救った人間をモノみたいに言いやがって……」

「なんか言った?」

「いや、なんでもねえよ」

 

 こんな物騒な話をしているというのに、店内の人形は何一つとして動かなかった。当然といえば当然なのだが、なまじ人の目線を感じて、この会話に聞き耳を立てる影がいるような気がしてならない。

 

 このままこの場所にいたら、気が滅入ってしまいそうだ。

 

「あたしの『楽園』は、お人形さんたちが生きる世界なの。お人形さんたちが自分の頭で考えて、子供を作って……繁栄していく。あたしはその世界を創った神様で救世主になるんだ。このまま未来永劫称えられるんだよ? それってとーっても偉いでしょ?」

「俺はイエスマンじゃねえ。いちいちご機嫌取りに付き合わせるな」

「ふうん……でも言っておくけど、あたしに気に入られたら、今の仕事だってやめられるんだよ。ずっとずーっと、あたしの世界で生きていけるんだよ? そしてあたしの愛を、あなたは受け取れる。こんなに待遇の良い環境、断らない方が良いと思うんだけどなあ」

 

 レティシアは店の隅を手で指し示す。

 

 そこには――ジャンヌがいた。一瞬だけ心臓が跳ねた。

 正確には、ジャンヌを模した人形だった。細い手足も栗色の髪も、余すところなく綺麗に再現されている。近くで見れば人形の関節が浮き出てくるが、遠目に見れば人間にしか見えない。――特に、処刑台の下からでは、ほとんど人間にしか見えないだろう。

 

 レティシアは恍惚とした表情を浮かべ、ジャンヌ人形に近づいて関節を動かす。

 

「愛の力って凄いと思うんだ。だってほら、余分に一体創っちゃったの! 今はこれで寂しさを紛らわせてるんだよ。あ~、はやく動くお人形さんに会って、お話してみたいよう」

「量産してんじゃねえ。趣味が悪い」

 

 あまりの技術に、背筋に寒気が走った。

 

 これが、レティシアの技術。愛情を抱いた人間の姿かたちを、彼女は忠実に人形で再現することができる。まるで人間だと錯覚してしまうくらいに、再現性は高い。

 だが、この卓越した技術が巨万の富を築いたことは想像に難くない。レティシアは女性ながら、人形師として一代で成り上がった強き女性だった。

 

 死刑執行時の派手なパフォーマンスが思い出される。

 

「……死刑囚の入れ替えには苦労したんだぞ。処刑台に運んだ死刑囚を、看守のいない深夜に人形とすり替える。死刑囚に自分から近づこうとする人間は俺しかいないから、当日も露見されない。灯油で浸された人形は、公開処刑の衆人環視の中で引火して爆発する。人形は跡形もなくなって、死体が消えたかのように見える。誰かが神の裁きだと叫べば、民はその言葉に同調し鵜呑みにする……気味わりぃな」

 

 気味が悪いほどに、レティシアのシナリオ通りだった。

 こうして社会上ジャンヌは死んだことになり、今はこうして物理的に命だけが現世を彷徨っている。後はジャンヌを箱庭に送り届ければ、ジャンヌはそこで一生を遂げるだろう。

 

 レティシアの所有する広大な土地の中で、死んだはずの人間が第二の人生を送る。その場所をレティシアは『楽園』と呼んでいた。

 

「あたしはねー、お人形遊びがしたいだけなのになー」

「それが気持ち悪いって言ってんだ」

「――あたしね、人の考えることが分かるの。街の人間ってみーんなバカなんだもん。神父さんが神の御業だって言っちゃえば、皆信じちゃうじゃん。良いことも悪いことも全部神さまのせいにするなんて、あたしは間違ってると思うんだけどなあ。実際、こうして騙せちゃってる訳だし? という訳で……わたしはわたしの世界で神さまになるんだ。今んとこサミュエルもあたしのお気に入りだし、その気になれば『楽園』に入れてあげても良いんだよ」

 

 胸元に添えられた指を跳ねのける。

 

「興味ねえよ。それにその是非を問い質すつもりも俺にはねえ。俺は自分しか信じないって決めてんだよ。対価があればそれで充分だ」

「……つれないなあ」

 

 レティシアはわざとらしく肩を落とす。

 

「それで、報酬の方はちゃんとあるんだろうな?」

「もっちろん! あなたがジャンヌを『楽園』へと連れて行けたらね」

「それじゃ遅いんだ。前払いで頼む」

「ふうん、二人きりで逃げるつもり……? あのジャンヌって子、気に入っちゃった?」

「ちげえっての。あんなガキがどうなろうが、知ったこっちゃねえ。例の情報が手に入るっていうから、こうして命の危険まで冒して協力してやってんだろ」

「あ~、そっちねぇ。そっちなら、もう渡してあげてもいいかなあ」

 

 レティシアが机の下から小包を取り出した。

 両手に収まる程度の白い布の中には、今回の報酬――重要な情報があるはずだ。

 

「教会にいる男の子って聖人君子ばかりだと思ってたのに、いろんな人が居るんだね! すーぐ裏切っちゃってあたしの言いなりだもん。どうしてああも、ムッツリスケベちゃんばっかりなんだろ」

「男を誑かした話なんて聞きたかねえ。黙ってそれを渡してくれ」

「もう、しょうがないなあ。はいっ」

 

 ニコリと微笑んで、レティシアは小包を俺に差し出した。

 

「助かる。これで、後はジャンヌを『楽園』へと届けるだけだ」

「なんとね、おまけして人形さんへのプレゼントもあるんだ。帰ったら開けてみてね!」

「いらねえよ。なんだよその怪しいブツは!」

「だって~、あたしのお人形さんだし、歓迎したいじゃない! 今更受け取り拒否なんてできないんだよ。このままお人形さんの元に帰って渡してあげて。ね、サミュサミュ?」

「……すまん、今めちゃくちゃゾッとした。なんだよその呼び方は」

 

 レティシアは、何かおかしい事でもあった? とでも言いたげに頬を膨らます。

 これは、俺とレティシアどっちがおかしいんだ。

 周りを見渡しても、答えてくれる人はいなかった。

 

「残りのお仕事も、よろしくね! もう一度言うけど、あたしのお人形さんを傷付けたら、許さないからね。あたしたち、共犯だからね。あなたの過去も、やろうとしてることも、あたしぜーんぶ知ってるんだよ。裏切ったらどうなるか、分かるよね?」

 

 背中に毒針を刺されたような気持ち悪さを覚えた。

 

「……知ってるさ。任務は遂行する。任せとけって」

 

 ちょうど先ほど、ジャンヌと格闘していたなんてことは、言えるはずがなかった。

 それに、ジャンヌが神を信じないだろうことも……。

 こっちは、言う必要ないだろう。恐らくはレティシアも知っていることだから。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 宿に帰ると、ジャンヌは起きていた。

 立て鏡の前で、ストレートの髪を手で器用に掻き分けている。シニヨン風の髪型に固定したまま、ジャンヌは瞼を重たそうにして、自分の顔をまじまじと見つめていた。

 

「――なにしてんだ」

「兄さんに会いに行く準備」

「出発は明日の夜だっての。今日はゆっくりしてろ」

 

 だが、ジャンヌは自分の髪を離そうとはしない。

 

「ううん、やだ。出発するまで。いろんな髪型、試す」

「お屋敷まで、長い地下通路を歩いてくんだぞ。体力を蓄えておけ」

「うん、眠くなったらそうする」

 

 もう十分眠そうなんだが。

 

「――髪留めならここにある。おめえを飼いたいって野郎から服も何種類か受け取ってきた。好きに使え」

 

 小包ごとベッドの上に投げる。先ほどレティシアから貰ったものだった。人形へのプレゼントなんて言っていたが、中身は女の子向けの衣服と装飾品。レティシアもこれを見越していたんだろう。こういうことに気が回るのは確かだから、複雑な気持ちになる。

 

「……うん」

 

 ぼーっと、目の前の衣服に目を奪われるジャンヌ。決して手の届かない貴族を見るかのように、ぽかんと眺めている。

 

「気に入ったか?」

 

 ジャンヌは答えない。俺の声なんて聞こえないかのように、まじまじと見つめている。

 

「着るか?」

「良いの」

「ったりめえだ。おめえの為に用意したんだとさ」

 

 この子も女の子なんだな、そう思った。

 

「兄さんに会うんだろ。好きに使え。少なくとも、出発までには決めておけよ」

「こういう髪型をする方が、男の人って喜ぶのかな?」

 

 髪型をツーサイドアップに固定したまま、ジャンヌは俺を見る。にやけることもなく、照れることもなく、真顔で俺を見つめていて、なんだか違和感が拭えない。

 

「……派手だな。目立ちすぎる」

「うん。わかった。やめておく」

「でも、可愛いんじゃねえのか? 少なくとも、俺がガキの頃なら惚れてると思うけどな」

「今は」

「なんとも思わねえよ。どんな髪型をしても、おめえには惹かれねえ」

 

 そんな記号的な可愛さに興味を覚える年齢じゃない。

 そもそも、恋する少女みたいな純真無垢な心なんて、捨ててしまった。

 

「ん、じゃあやっぱりやめる」

 

 ジャンヌは髪を解いて、もう一度別の髪型を探していた。

 

「……ずっと、兄さんのこと考えてたのか?」

 

 ジャンヌは答えない。図星なんだろう。

 

「家族思いなんだな」

 

 なんだか、こういうところは年相応だ。

 どうしてこの子が、大量殺人を犯したのか……。それが不思議でならない。

 

「おめかし、した方がいいの」

「そうだな、普通の女の子は自分の外見が気になるだろうさ」

「ふうん、じゃあ。わたしもそうする」

「勘違いするなよ。無理にしろなんて言ってんじゃねえって。あくまで普通の女の話をしてんだよ。素の自分が良かったらそれで良いんだよ」

 

 とはいえ、髪留めをぼうっと見つめるだけで手を動かさないジャンヌが、どうしてもじれったかった。

 

「ったく、後ろ向け」

 

 櫛を持ち、ジャンヌの後ろに立つ。

 髪は梳いてやろうと思った。だが、ジャンヌの髪は梳くまでもなく整っている。

 

「これだけ綺麗ならなんでもできるだろ。好きな髪形に整えろよ」

「好きな髪型、好きな髪型……」

 

 ジャンヌが復唱するが、やがて首を振る。

 

「わからない」

「さては普段からやってないな」

「うん」

「……無理に使わなくても良いさ。飾りなんて使うまでもなく、おめえはおめえだよ」

「ねえ、お願いだから、一緒に居てくれる?」

「分かったっての」

 

 もう寝首を掻かれることもないだろう。俺は椅子で寝ておくか。

 

「ただ――まだやることが残ってるからな。その前に少し、外に出る」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 日は沈み、暗闇が街を襲っていた。

 

 外套を着こみ、頭にも布を被って、俺は外に出る。松明は必要ない。夜目が効くよう特訓しているし、そこらの夜盗には負けない。むしろそれらは人に見つかるリスクでしかない。

 

 レティシアから教えられた住所を元に、静まり返った街中を歩く。

 

 誰もいないはずの空き家に、男はいる。

 ボロボロの家だった。屋根には穴が開き、塗装もはがれている。お世辞にも良いとは言えない生活水準が窺える。

 

 扉を開けると、壮年の男が布を身体に掛け、すやすやと寝息を立てていた。いびきに合わせて、汚い腹が上下している。

 

 そんな男に、俺はまたがった。身体を拘束し、右手で男の頬を一打叩く。

 目覚ましには十分だった。

 

「動くな。逃げようとすれば、殺す」

 

 男の眼が開こうとした瞬間、ナイフの切っ先を見せつける。屋根の隙間から入り込む光に煌めいて、男の眼球が照らし出された。男は目覚めるなり、置かれている異様な状況に震え出す。

 息を呑む音が、静寂に響いた。

 

「シルヴァン・マッケンロー、一年前の鉱山爆破事故の現場監督だな」

「どうしてその名を……」

 

 男が抵抗することはない。しわがれた声だった。

 

「なに、ちょっと裏ルート漁っただけさ」

「……君は誰だね? 盗賊か?」

「なに、この辺のとある善良な市民さ。訳あって街の宗教には飽きたがな」

 

 ドスを利かせて、俺は目の前の男に問う。

 

「今こうして襲われている理由は、あんただったら分かるはずだぜ。かつてこの地域で起きた鉱山事件は知ってるよな? 瓦礫の山に埋もれて、大勢の人間が下敷きになった。ガスに引火して、山が吹っ飛んだ。この町最悪の鉱山事故さ。恐らく、未来に語り継がれるこの街の汚名だろうよ。なあ、当時の現場監督さんよ」

 

 あれが、全ての始まり。

 あの事件がきっかけで、多くの人間が命を失った。

 あの事件がきっかけで、多くの人間が親しい人を失った。

 あの事件がきっかけで、多くの人間が――ジャンヌに焼かれることになった。

 無言のまま頷こうとする首を固定する。髪を掴んで至近距離で睨みつけた。

 

「んで、こんな不幸な街で、なんでお前だけが生き残ってんだよ」

「――ッ!」

 

 男の呼吸音が荒くなる。じたばたと足を動かしているが、無駄な抵抗だ。

 

「……不幸な事故だったんだ。まさか鉱脈の先に毒ガスが充満しているなんて、思わなかった。逃げるしかなかったんだ」

「そうやって今まで言い逃れてきたのか」

 

 動かぬ証拠。レティシアから貰ったブツを見せる。

 

「これを見ても同じことが言えんのか?」

 

 計画書だった。鉱山の図と、掘削計画が細かに書かれている。

 

「よく見ろよ。技術者が知恵振り絞って書いた計画書さ。詳しいことは分かんねえが、ありえないくらいにしっかり書かれてやがる。崩落の可能性や、作業員の安全まで考え抜いたんだろうな。本来作られるはずだった坑道の中身まで、しっかりと書かれてんだよなあ。これを書いた人間はバケモンだ」

「それは……」

「ところで質問だが、これを見ながら実際に炭鉱に入った人間は、どう思うんだろうな」

 

 男は答えない。無言を貫いていた。

 

「まさか、この計画書みたいな細かい分岐点はなく、でっかくて深い穴がぽっかり空いてるだけだなんて思わねえよなあ。まさか本来作られるはずの通気口すら作られてないなんてことはないよなあ?」

 

 男の顔が、一瞬にして変わった。苦虫を嚙み潰したような表情。

 ――今更、遅いんだよ。

 

「作業員の労働環境が思いやられるぜ。狭苦しい穴の中で、大勢の人間が一か所で掘り続ける。通気口がなくて酸欠になる作業員も大勢いただろうな? つるはしの衝撃で細かい粉塵を吸い込んで、肺も喉も壊していったんだろうな? そんな作業員たちを、おめえは外から眺めていただけだった。崩落事故の起こったあの日、おめえは異変に気付いていの一番に駆け出した。おめえの下でせっせと働いてた作業員たちは、唯一の退路を塞がれてなすすべなく殺されたのにな」

「言いがかりだ。毒ガスが――」

「まだ分かんねえのか。こっちは実際に行って確認したんだよ!」

 

 男が目を見開いた。

 毒ガスが蔓延して鉱山は封鎖された。だが、毒ガスは全くのデタラメだ。

 

 死ねるなら死んでもいい。そう思った俺は、鉱山に足を運んだのだ。鉱山にはただ大きな窪みがあるだけだった。放置された大勢の死体も、綺麗さっぱりなくなっていた。この街は何かがおかしい。異変に気付いた瞬間だった。

 

「毒ガス自体、嘘なんだろ? 当時採掘費用をくすねていたおめえは、事故を掘り起こされないよう、人を鉱山に入れたくなかったんだよな? だからわざわざ山一個封鎖して、おめえは悲劇の主人公になったんだ。数少ない生き残りにヘイトを向けて、事情を知る者は皆殺しにかかった。教会と癒着してたおめえなら、簡単にできたことだよな?」

 

「生きる、ためだったんだ……。部下たちを救う余裕は、なかった……」

「だったらなんで他の生存者に罪をなすりつけたんだ! なんで事件の元凶を作ったおめえだけが、こうやって幸せに暮らせてるんだよ!」

「知らないっ。私は、何も知らないんだ」

「……まだ逃げおおせる気か。素直に言えよ。おめえ、部下に証拠突き止められたこともあったらしいな、女で釣ろうとして逃げようともしたんだってなあ?」

「言いがかりだ!」

 

「ちゃんと残ってんだよ。作業員の日記帳にはな、しっかりはっきりと書かれてた! ハラスメントの詳細も、人間をモノみてえに酷使されてる労働環境も、段々と体を壊していく作業員の様子も、事細かに全部記されてんだ。まだ言い逃れる気か!」

「それは、誰の日記だ……。リュカか? クリストフか? お前どこで聞いたんだ!」

 

 リュカ・アンドレウス――それは一人の作業員の名前。生存者の一人で、後に俺に処刑された男――ジャンヌの兄だ。男の不正の詳細は、リュカを『楽園』に届ける際に聞いた話だった。

 

 だが、そんなことを教えてやる義理もない。

 俺のやることは、ただ、男を恐怖のどん底に突き落とすこと。

 

「――この世界にはな、霊媒師っていう職業もあるみたいだぜ? 死霊を呼び起こせば、死者の声だって聴ける良い時代さ。どっかの死霊が教えてくれたんじゃないか?」

 

 思惑通り、男は身を震わせる。まるで、本当に死霊に背筋を掻かれたように。

 

「ひっ、あんなの偽物だ。教会が認めたものじゃないっ!」

「本当かどうかは怪しいさ。だけど、おめえらもおめえだよ。大した根拠もなしに自分に都合の良いことばかり信じやがって……。何が神だ、何が悪魔だよ、クソッ! おめえ、どこまでも自己中心的だよ。ま、それは俺も同じだけどな。っつー訳で、親友の敵だ。死んでもらう」

 

 首筋にナイフを添える。鋸のように引けば、鮮血が飛び散ることだろう。

 情状酌量の余地はない。正真正銘のクズだ。

 

「やめろ……! なんだってする。金なら払う。この事だって告げ口はしない!」

「金か……。こんなボロ家で暮らしてるおめえが、金を持ってるなんて思えねえんだ。事件の隠蔽にいくら使ってんだよ……。それに、もう人が死んでんだ。もはや金で解決できる問題じゃねえんだよ。自分だけ助かろうととしてた奴が今更何を言っても遅い」

 小動物のように、男は身を震わせる。

 心の底まで醜いと思った。

 

「頼む。償う。命だけは……」

「ごめんな、俺は誰も信じちゃいねえんだ。このまま夜盗に襲われた体で殺すよ。どうせ簡単な嘘で扇動される民のことさ。事件が明るみになれば、おめえが悪魔に魂抜かれたっつっても信じるだろうな」

 

 その時、月明りが、男の瞳を照らし出した。

 潤んだ目だった。死の寸前で、生を懇願する瞳。全ての手段を失った最期、情に訴える表情。この腐れ外道も、死を覚悟したらそんな眼をするのか。そう思った。

 それが、僅かな隙となった。

 

「う、ぐっ!」

 

 男が最後の力を振り絞る。身体全体を持ち上げられ、体勢を崩す。俺の油断に付け込んで、シルヴァンは拘束を解いた。

 

「ひっ……誰かぁっ! 助けてくれええっ!」

 

 男は駆け出し、前のめりで逃げていく。逃げようと意識しすぎだ。下半身が追い付いていなかった。やがて足がもつれて、体勢を崩して転んでしまった。

 

「――馬鹿野郎」

 

 戒めながら、俺は後ろからゆっくり男に近づいていく。トカゲのように這いずってまで逃げていく中年男は、滑稽だった。

 

 だが、男の逃げるその先に、人影があった。

 

「なに、してるの」

 

 扉の先に人影があった。目を奪われた。

 栗色の髪の少女。ジャンヌが、月明りに照らされている。なんでここにいるんだ。

 男は少女の正体を知ってか知らずか、目の前の少女に救いを求める。

 

「……なあ、誰かっ。助けてくれ。そこのお嬢ちゃんでも良い。大人を呼んでくれ。ああ、神さまっ、助けてくれえっ!」

「かみ、さま……?」

 

 目の前に、闇が広がっていく。彼女の秘めたる闇が、夜の街に晒されていく。

 

 ――そいつの前で、その言葉は、禁句なんだよ。

 

 ジャンヌの眼の色が豹変する。

 やがて、果実の弾ける音がした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「おい、起きろ。そろそろ戻れ」

 

 全てが終わった後、ばったり倒れたジャンヌを抱きかかえ、頬を軽く叩いた。するとジャンヌはゆっくりと瞼を開き、光のない瞳を見せた。

 

「……起きたか。なんで、外まで来たんだ」

「部屋で、髪留めを探してた。でも、一緒に住所の紙が書かれてて……」

 

 思い出す。必要最小限の荷物だけ持って歩いていたところだ。一緒にシルヴァンの居場所が書かれた紙まで置いてきてしまったらしい。

 あの紙には事故の詳細も同時に書かれてある。嗅ぎつかれたのだろう。迂闊だった。

 

「よりによって、あんな派手にやりやがって。もう夜盗なんてレベルじゃ片づけられねえ。明日には街が騒ぎ出す。今夜、っつか即だ。出発するぞ」

 

 ジャンヌの姿を見る。おめかしの途中だったのか、外向きの服のままだった。だが、明らかに染め色ではない赤がべっとりと付着していて、異臭を発していた。

 

「どこかで沐浴を済ませるか? とにかく、すぐに出るぞ。日が昇るまでにはギリギリ間に合うはずだ。……ジャンヌ、ジャンヌ?」

 

 ジャンヌは放心状態だった。彼女の目の前で手を振ると、彼女ははっと目を見開いた。

 

「……全部、あの男の人のせいだったの」

「さあな。あいつがいなくても炭鉱は使えなくなってたかもしれねえ。でもあいつじゃなかったら、今頃おめえが兄さんと離れ離れになることもなかったんだろうな」

「あなたは、兄さんの仇を討ってくれたの」

「討ったのはおめえだよ。俺は問い詰めてただけだ」

「わたしがいなかったら、討ってた」

「そうだな……結果的にはそうなるんだろうな」

 

 だが、あの時。俺は死ぬ前の男の表情を見てしまった。逃れられない死を目前にして、なお生きていたいという表情だった。

 

 あれを見た直後、もしジャンヌが現れなかったら、俺はあいつを殺せただろうか?

 一瞬の逡巡なく殺せた自信はない。

 俺は自身の冷酷さを見誤っていたようだった。

 

 死罪になる連中は、ほとんどが皆死ぬことを完全に受け入れている人間ばかりだった。苦しみのないよう殺してくれと言わんばかりの死相が出ていて、俺も殺すことに抵抗はなかった。だから殺すことができたのだ。

 

 だが、この殺しは違う。それは、人の希望の一切を、摘み取る行為だ。

 今、実感する。生きていたいと願っている人間を殺すことは、俺にはできない。

 

「やっぱり、あなた、やさしい」

 

 何かを察したのか、ジャンヌは俺の頭を撫でる。

 

「ばーか、利害が一致してるだけだ。別にお前の為を思ってやったことじゃねえよ」

 

 ジャンヌはうんうんと頷いて、俺を撫で続ける。なんだか俺の方が、強がってるガキみたいな気分だ。

 

「勘違いするな。ここまで動いてたのは、本当にお前の為を思ってやったことじゃないんだ。言ってるだろ。俺は誰も信じないって。俺は俺の為に復讐を果たした。俺だって、ずっと復讐したかったんだよ」

 

 この復讐劇に、ジャンヌという登場人物はいない。

 

「……俺もおめえと同じさ。大事なマブダチを殺されたんだよ」

 

 俺は語った。過去の自分を。

 

 俺は死刑執行吏の家系だった。貴族とは縁があったが、賎業であることに変わりはない。話しかけてくれるような人間はいなかったし、出歩けば避けられる日々だ。学校には通えたが、友達が作れる身分じゃない。日常的な会話なんてできなかった。

 

 蓄えはあっても、生活に満足はできなかった。孤独な毎日を送っていたある日、唯一話しかけてくれた男がいた。

 

「クリストフ・フォンテーヌ、聞いたことはあるか?」

 

 ジャンヌは首肯する。

 

「俺の唯一の親友だった。あいつの家は屠殺業者だったんだ。俺たち街の人間が生きていく上で必要な職業なのは確かさ。でも周りの奴らはそんなことから目を逸らして、疎んでたんだよ。ある程度慣れているところではあったんだろうが、大体は俺と似た境遇だったんだろうな。殺しを生業にする者同士、互いに肩を寄せ合っていた」

 

 思い返すと、その時はまだ、あいつのことだけは信じられていたんだっけか。

 遠い過去の話だ。

 

「だが鉱山の開発が進むにつれて、そっちの人員が足りなくなったのか、俺たちにもお呼びが掛かったのさ。あいつは家業は父に任せて炭鉱で働くことになった。俺は兄弟がいなかったから免除されたがな。そして……爆発事故が起きた。しかも、あいつは不幸にも生き残っちまったんだよ。お前の兄さんと同じ、数少ない鉱山事故の生き残りだ。生き残りの中でも、傷は酷いものだったがな。皮膚のあちこちが焼けただれて、痛々しい傷跡を残したまま……それでも帰ってきたんだよ」

 

 確か、あの爆発事故から生き残ったのは僅か三人だけだったはずだ。

 

 リュカ・アンドレウス、

 クリストフ・フォンテーヌ、

 ……シルヴァン・マッケンロー。

 

 生き残ったシルヴァンという男の保身の為に、リュカとクリストフは悪魔のように扱われた。やがて、二人ともお祭り騒ぎの中で処刑されることになった。

 

 この街を脅かした悪魔の一員として、歴史に名前を残すのだろう。

 おそらくは、これからもずっと。

 

「今は……私やお兄さんみたいに、クリストフは助けなかったの」

 

 俺は首を横に振った。

 

「……無理だった」

「かわいそうに」

「おめえとリュカは選ばれた。でもあいつは、選ばれなかった。レティシアの御眼鏡には適わなかったらしい」

 

 思えば、あの時をきっかけに、俺は変わってしまったのだろう。

 

「じゃあ、クリストフさんは……」

 

 ジャンヌも察したのだろう。軽く息を呑む声が聞こえる。

 

「――俺が、殺したんだよ」

 

 最も簡素で苦痛を与えられる刑罰は何か。それは火刑だ。身体を焦がす熱と、汚い煙の息苦しさ。命の糸をぶつ切りにする斬首刑とは違い、火刑はただただ苦痛をもたらす。身体の外側から蝕まれて苦痛を感じ続けるのに、意識はなかなか落ちてくれない。身体中の水分が失われていき、最終的には枯れるようにして死ぬ。自分の人生を反省するにはこれ以上ないくらいの良い機会で、見世物にもなる。

 

 だがこれはもちろん、罪人に罪の意識があるから成立する話である。

 クリストフに反省の色はなかった。ただ自らの無実を訴え続けていた。業火に焼かれながらも、彼は俺の目を見つめ続けていたのだ。

 

 生きたい、助かりたい、自分は人間だ……。傷だらけの体で生還したにも関わらず、クリストフは身体を焦がされて死んだ。体表のほとんどを黒く焦がしながら、あいつは最期まで神の許しを請い、俺を見つめていた。お前なら助けてくれるだろと言わんばかりの目だ。意識のなくなる瞬間まで、ただ純粋に俺の目を見つめ、助けを求め続けていた。

 助けてほしいと訴える親友を、俺は見殺しにした。

 

 そして民は、クリストフのことを他人事のように見て、嗤っていた。

 心の底から、世界がどうだって良くなった。

 それ以来、俺は他人のことを考えるのはやめにしたのだ。

 

 後にレティシアから事件の真相を聞いた時には驚いたものだ。鉱山事件には黒幕がいると、レティシアはほほ笑みながら俺に語り掛けたのだ。クリストフにあんな仕打ちをした奴らをとっちめてやりたくなったが、情報を得るには、あいつの言いなりなる必要があった。

 

 ジャンヌのような死刑囚を救い、レティシアの『楽園』に送り届ける。指令が入るたびに情報のピースが集まる。だから従っただけのことだ。

 レティシアの言うことを聞いて、その黒幕とやらに私刑なり復讐なりすることが、人生の目標になった。もう、自分のことしか考えない。そう生きると誓った。

 

「だからおめえを助けたのも、どっか遠い屋敷に送り届けるのも、あのクソジジイを始末したのも、全部俺の為なんだよ。俺は俺の為に生きる。他人のことは考えない」

 

 逆に、それくらいの決意がなければ、復讐するなんて選択には至らなかっただろう。

 

「なあ、ジャンヌ。少しだけ、恨み言を言っても良いか?」

 

 ジャンヌはこくりと頷く。これから、どうにもならないことを言われると理解しながら。

 

「なんでさ、おめえは選ばれて、クリストフは選ばれなかったんだ? なんで、リュカは選ばれて、クリストフは選ばれなかったんだ? なんでだよ……。なんで俺は、一番殺したくない奴だけを、殺しちまったんだよ」

 

 ジャンヌは答えなかった。答えられる訳がない。質問を投げる相手が、間違っている。そんなこと、とっくに自覚している。

 

 それでも、このやり場のない感情をどこかにぶつけなければ、気が済まなった。

 

 やがて、ジャンヌは答える。

 

「ねえ、屈んで」

 

 ジャンヌに言われるがまま、俺は屈む。

 白い両腕が、俺を包み込んだ。

 

「おい」

 

 身体を押そうとしたが、彼女は離れなかった。むしろジャンヌの力は更に増す。締め付けられる痛みはないが、抜け出すこともできない。

 

「離れないで」

「ぐっ、何すんだよ」

「こうすれば、痛みは和らぐっていう。いまのあなた。かなり傷ついてるから。だいじょうぶ、だいじょうぶ。いま、ぜんぶ、終わった。あなたを苦しめるものはなにもない。だいじょうぶ。あなたはそのまま自分の為に生きれば良い」

 

 撫でられる。短髪を掻きあげられ、地肌に指が触れる。

 

「自分の為つっても、俺はもう、やりたいことは全部やっちまったよ……」

「しぬの」

「このまま自分で自分を殺すのも興味ねえかな。後は時が殺してくれるのを待つだけさ」

「ふうん」

 

 ジャンヌはそう言いながらも、ずっと俺を撫でていた。

 

「……ジャンヌ。なんでおめえは、そんな簡単に人を殺せたんだ。街から街に罪もない人間に火を放ちまくって、どうしてそんな酷いことして、平気でいられたんだよ。どうして俺が起こした時に、『死にたい』なんて言えたんだよ」

 

 怒っているつもりはない。純粋に疑問なのだ。

 

「……多分私には、あなたみたいな心がないから。パパもママも死んじゃって、兄さんもいなくなった。大切にしたい人間はもういなくなっちゃったから」

 

「そんなの俺も同じだよ。俺だって孤独で、これからどうやって生きていくのか見当もつかねえ。これ以上失うものなんて何もないはずで、人の命を奪うことにも抵抗ねえって思ってたんだよ。でもな……なんでなんだよ。必死で生き延びたいと願ってる人間の顔を見ると、決まって心が苦しくなるんだよ。死神の鎌を取ったはずなのに、いつからか手が震えて振り回せなくなる。それなのにおめえは、どうして平気な顔で火を放てたんだ」

 

「さあ。分からない。痛まないから痛くないとしか言えない。わたしは、痛みを感じるあなたの優しさが羨ましい」

「羨ましい? そんな訳があるか。この感情のせいで、さっきはおめえに迷惑かけただろ」

 

 この感情は害しかもたらさなかっただろうが。

「……でも、わたしは痛くならない。兄さんの方が苦しい思いをしてたから、かな」

 

 それ以上、ジャンヌは答えなかった。

 抱きしめられながら、彼女の心臓の音を聴いた。力強く脈を打つ音。全力で生きようとしている人間の音。確信する。ジャンヌは人間だ。この子が悪魔なはずがない。この子を取り巻く環境が、悪魔だったんだ。

 

 だが、彼女の腕に、彼女の胸に、温もりは感じない。

 雪原に身体を埋めているような心地だった。

 

 ◇ ◇ ◇ 

 

 ジャンヌを着替えさせ、残る荷物を全部持って、家を抜け出した。

 

 今では使われない地下通路に入ると、いよいよ人の気配は完全に消える。まっすぐ行った先に、『楽園』はある。

 

 ジャンヌは俺の裾を掴んで、ゆっくりついて来る。何かに躓いて転んでしまわないように、一歩ずつ、一歩ずつ。だが夜が明ければゲームオーバーだ。

 

 ジャンヌはしょんぼりと、小声で言う。

 

「おめかし、できなかった」

「……しゃあねえだろ。あんな汚れてちゃもう元には戻せねえよ」

「髪も――」

「もう髪を結う余裕もねえんだ。諦めてくれ。ああ、あと腕は痛むか?」

「うん。まだ少し痛むけど、平気」

「――なら良いさ。じきに直る」

 

 ジャンヌに傷をつけたとなっちゃ、レティシアから折檻を食らうのは目に見えてる。だがそんなことはなさそうで安心した。

 

「ねえ、サミュエル」

 

 初めて、俺の名前を呼ばれた気がした。

 

「あなたは、わたしを送り届けた後、どうするつもりなの?」

「俺か……。ひとまず、街に戻ってみる。あの事件がバレそうだったら街を出るさ」

「お屋敷には入らないの」

 

 レティシアの顔が思い浮かんだ。

 俺も望めば『楽園』の住人になれるのだろうが、あいつに生かされるのも御免だ。

 

「仕切ってる奴が気に入らねえ。金には困ってねえし、あいつに生かされるくらいなら、適当にどっか旅でもするさ。俺はもう命に心残りはねえんだよ。なすがままにするさ」

 

 俺の仕事は終わりだ。後は惰性で生きて、惰性で死ぬ。それで良いだろ。

 

「ふうん……」

「怖くなったのか?」

 

 ジャンヌに返事はない。動かない頬を見ながら、俺はこれからの生活を思い描く。

 この仕事が終わったら、俺はまた通常業務に戻るのだろうか。

 

 レティシアからの依頼はまた来るのだろうか。だが、もう欲しい対価もない。彼女に従う動機もない。恨みをぶつける相手は――後は街を仕切ってる教会とやらになるんだろうが、俺にそんな強大な相手に怒りをぶつける気にはならなかった。街の慣習に従って、平穏で虚無な生活が待っていて、やっと全うな、日常の生活を送ることができる。

 

 なんだか、思ったよりも呆気ない。そう思ったら、笑えてきた。

 

 だからなのか、ほんの気まぐれが俺を襲う。

 ジャンヌとは任務が終わるまでの関係だと思った。『楽園』に送り届ければ後は関係ないと思っていた。でも俺の心の奥底で、どこかそれじゃいけないような気がしたのだ。

 

 俺は俺の為に生きると誓っていた。

 それなのに今は、この少女の行く末が気になってしまう。長年感じてこなかった感情。

 

「……ついてってやろうか? おめえが兄さんに会うまで」

「あなたは、それでいいの」

「おめえとリュカがどんな言葉を交わすか、少しだけ見てみたくなったんだよ」

 

 ぶっきらぼうに、俺は答えた。

 レティシアも、少しくらいは許してくれるだろう。そもそも、これは俺の気まぐれでしかない。断られたら素直に諦めれば良い。

 

「兄さん、どんな顔するかな」

 

 ジャンヌが小さく呟いた。

 

「今更かよ。リュカに認めてもらえるか、心配なのか? 言っとくが、リュカにおめえの情報は流れてないはずだぜ。レティシアの世界で、外の世界の事件なんか語らせたくないだろうしな。おめえがこれまでしてきた情報は伏せられてるはずだ」

 

 それよりも心配なことがある。ジャンヌこそ、兄に会ったらどんな顔をするのだろう。

 

「……会ったら、全部言うつもりなのか?」

「分からない。言うかもしれないし、言わないかもしれない」

「ふうん。まあ自由だけどよ」

 

 いくら彼女の過去が消え去ろうと、彼女の罪は消えてくれない。それを全部しょい込んで生きていく日常は、どんな味がするのだろう。

 

「ねえ、あなたは、少し兄さんと一緒にいたんだよね。そのときのこと、聞かせて」

「――まあ、暇つぶしに、少しだけな」

 

 今はただ、漠然とした未来がどこに転ぶのか、待つことしかできなかった。

 

 ◇ ◇ ◇ 

 

 朝焼けが顔を出すかという頃、俺たちは坑道を出た。

 日程を早めることにはなったが、誰にも見つかることはなかった。

 

 レティシアの『楽園』はすぐそこにある。背丈の倍ほどある石の塀が、広大な土地を正方形に切り取っている。上部は有刺鉄線が張られていて、侵入も逃走もできないだろう。中で緑が広がっているだろうことが、揺れる木々を見て判断できるくらいだった。唯一ある門は固く閉ざされたままだった。

 

 一日早く到着することになったことは、レティシアは知らない。

 

 ――なのに、居る。

 

 出会った瞬間、乾いた音がした。反応する間もなく身体を震わせる。銃でも打ったのかと思ったが、身体に届いたものはそんな物騒なものではなかった。

 小さな色紙だ。いくつにも切り分けたカラフルな紙吹雪だった。

 

「これ、遠い国のお祝いで使うらしいよ。クラッカーって名前なんだって。火薬もこんな風に使えば平和な使えるって訳かー。勉強になるね。って訳でやっほー、人形館へようこそー。そっちのあなたは初めましてだね。お名前はなんて言うの? あたしはレティシア!」

 

 レティシアが小さく手を打っていた。

 ジャンヌは危険を察知したのか、俺の袖を掴んで壁にするように身を隠す。

 

「そんなに怯えなくても良いのに。あなたを買ったのはこのあたしなんだから! ほら、こっち来てよ。可愛い可愛いお人形さんっ!」

 

 俺はジャンヌに目線を合わせる。

 

「大丈夫だ。あんなんだが、おめえのことが気に入ったんだとさ。ちゃんと面倒は見てくれるはずだから、心配すんなって」

「ほーらこっち来て。ぎゅーってしてあげる!」

 

 大の大人が、小さな体躯を抱き上げる。

 

「ジャンヌ・アンドレウスちゃんだね。よしよーし。たった一人のお兄ちゃんを失って、ああ、本当にかわいそうな子。でももうそんな日々は終わったの。もうこれからは苦しいことなんてなにもないの。お兄ちゃんが中で待ってる。二人とも、私が養ってあげる!」

 

 レティシアはジャンヌに頬ずりしていた。ジャンヌは抵抗もせず、相変わらずぶっきらぼうな顔でレティシアのされるがままになっていた。

 

「……なんなの、この人」

「さあな。俺から見るとただの変態だよ。相手にしない方が良いんじゃないのか?」

「んもう、ケチなこと言わないでよ! あたしが哀れな死刑囚の為にこんな素敵なお屋敷を作ったのに! 庶民には絶対手の届かない大豪邸なんだもん。少しは感謝してよね!」

 

 事実なだけに、返す言葉がない。天才の考えることは、よく分からない。

 

「ほらほら、早速だけど、中に入ろ? ってあれ?」

 

 抱きかかえていたはずのジャンヌは、ぐったりとレティシアに寄りかかっていた。

 

「……寝ちゃったみたいね」

 

 いつの間にか、すやすやと寝息を立てていた。夜も眠らずに夜道を歩いてきたのだ。身体へ溜まった疲労は尋常じゃないのだろう。

 レティシアはジャンヌを抱いたまま、俺の方を向く。

 

「じゃあ、このまま預かろっかなあ。サミュちゃんもご苦労様、この子はあたしが引き取るね。あなたは街に戻っててちょうだい。報酬は後で渡すわ。これからもよろしく」

 

 早々に引き下がろうとしたレティシアを、俺は止める。

 

「……実はまだお願いがあるんだ。少し、様子を見ていっても良いか?」

「うん? どうしちゃったの?」

「ジャンヌと約束してんだ。兄さんに会うまで一緒にいるんだとさ」

「へえ、へええ~?」

「そんな意外かよ」

「流石に予想外だよぉ。サミュエルが『楽園』の住人に関わりたいなんて、今までなかったんだもん。この子にも惚れちゃった?」

「この子『にも』ってなんだよ。おめえにもジャンヌにも惚れてねえよ」

「むう、ちょっとはノってよね」

 

 レティシアは、ジャンヌを赤子のように抱き上げつつも、目で睨みつけている。こいつなりに嫉妬してんのか?

 

「そんなんじゃねえよ。ただ興味持っただけだ。こんな殺人鬼にも、人間らしい心があるのかどうかってな」

「どうかなー、いつからそんなに優しくなっちゃったの。あたしの記憶と違うなー」

「俺もわかんねえよ」

 

 吐き捨てるように言う俺の姿を見て、レティシアは感心したような眼を向けた。

 

「もしかして、サミュちゃん、変わった?」

「……おめえのその気持ちわりぃ呼び方は変わんねえのな」

「だってだってぇ、ちょっと可愛くなっちゃったんだもん! サミュサミュ、ますます『楽園』に入れてあげたくなっちゃった」

「何言ってんだか。俺はおめえの人形にはなんねえ。どう誘われたって入るもんか」

「ふうん」

 

 レティシアの目が鋭くなる。

 

「ところでさあ。あたしの依頼内容だと、明日の朝に到着する予定だったんだよね? なんで一日早く来ちゃったの? あたしのあげたお洋服、どうして使ってないの? もしかしてさ、汚れがべっとりついて落ちなくなっちゃった、とかなのかなあ? 答えてくれる? 邪なことがなきゃ、答えられるよね?」

「なんのことか、さっぱりだな」

「トボけるんだぁ。じゃあ良いこと教えてあげよっか? 多分、街は騒がないよ。教会お得意の神の御業でごまかすつもりだろうね。そもそもあのシルヴァンって男。教会でもよく思われてなかったんじゃないかな? いずれにせよ、自業自得だね」

 

 どうやら、昨日の事件も全てお見通しらしい。

 ……そりゃそうだ。証拠はレティシアから手に入れたものだ。こうして一日早く来ているってことは、「証拠」で何らかのトラブルに見舞われたからと推測するのが普通だろう。

 レティシアの優れた観察眼は、まるで本当に、未来が分かる神のようだった。

 

「どうしても俺を『楽園』に入れたいのな、拒み続けたらどうなるんだよ。教会の男にチクったりすんのか?」

「気になるかな?」

 

 レティシアは顔を俺に近付け、悪魔的な笑みを俺に向ける。

 強い風が吹いた。

 

「別に、なんもないんだけどなー。あなたは無理やり『楽園』に入れたいタイプじゃないもん! あなたはこれから、じわりじわり社会から縁を切っていって、遂に本当の孤独になって、誰かの愛が欲しくなっちゃって、自分からあたしの人形さんになることを望む。あたしは、そんなあなたが見たいの!」

 

 悪寒がした。レティシアの瞳は、狂気に満ちている。

 

「趣味が悪いぜ。そんなことは起こらねえよ。俺は孤独に慣れてるっての……」

「本当かなあ? 実は昨日の今日で、心の内を曝け出す相手、見つけちゃってない?」

 

 心臓が跳ねる。そんなことは起こるはずがないことなのに。

 

「ジャンヌのことかよ。こいつは既におめえの人形だろ」

「だってさあ、サミュサミュずっと、肩震えてるんだよ? 気付いてなかった?」

 

 え……?

 

 自分の両肩を抱くように確かめる。震えてなんかいない。

 

「あっ、その仕草……可愛いね!」

 

 その瞬間、俺は間抜けな恰好をしていることに気付いた。

 

「騙しやがったな。おめえ、俺をからかうのもいい加減にしろよ」

「えへへ~、だって反応面白いんだもーん」

 

 今、猛烈に、この女の頬を殴ってやりたくなった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「あんまり部外者を入れたくはないんだけどなあ」

 

 そう言いつつも、レティシアは俺を『楽園』に入れた。敷地の中には、緑が広がっている。森のように木々が立ち並んでいるのは外周だけで、中は芝生と小径。池まで用意されている。『楽園』の庭は、徹底的に管理されていた。奥には二階建ての洋館が建っている。俗世を逃れた人間には相応しい、安らかな世界。天国と言われてこんな風景を想像する人間は、案外多いのかもしれない。

 

 洋館の中に迎えられる。中に人形はいない。客間に通されると、ジャンヌをソファに寝かせて俺は隣に座った。

 

「ジャンヌちゃんもまだ寝てるし、ちょっとだけお話しよっか。コーヒーと紅茶、どっちにする? あ、それとも海の向こうの抹茶とかいうやつもあるよ」

「今更気を遣うなっての、相変わらず気持ちわりい奴だな」

「だって、あたしの認める男の子だよ。もてなしたくなっちゃうもん!」

「そうかい。だったら好きにしてくれ」

 

 レティシアは「はーい」と朗らかに返事をして、奥に入っていった。

 残された俺は暇になり、隣に座るジャンヌを見つめる。彼女は、まるで何かのスイッチが切れたかのようにぐっすりと眠っていた。

 

 ジャンヌのこれまでの境遇を思い、髪を撫でてやる。柔らかい感触が手に残る。

 まだ、彼女の頬に熱を感じない。体の表面に本当に血が通っているのか、気になる程だ。

 

「ジャンヌ、もう少しだ。もうすぐ兄さんに会えるからな」

 

 本来であれば、こんなことはしていないはずだった。予定通りなら、今頃俺は『楽園』に立ち入らず、一人で家に引き返している頃だろう。レティシアの言う通り、俺も変わってしまったのかもしれない。

 

 ジャンヌが目覚めた当初は、こいつがどうなろうが知ったことかと思っていた。むしろ、悪行に悪行を重ねるジャンヌが生かされることを憎いと思っていたくらいだ。

 でも今は、こんなに『楽園』への到着を喜んでる自分がいる。

 何がそうさせたのか、俺には分からない。

 

「おまたせ~、適当に選んじゃった!」

 

 レティシアがテーブルの上にカップを並べていく。花柄の白い陶磁器に、適度な濃さの紅茶で満ちている。香り漂うハーブティだ。

 その香りに心底落ち着く。血みどろの復讐劇が、嘘であるかのように思われた。

 でもこれは、嘘じゃない。終わったのだ。俺は復讐を果たした。後はもう勝利の美酒に酔いしれるだけでいい。

 

「ねえサミュちゃん、そんなにジャンヌちゃんのことが気に入っちゃったの?」

「さあな」

「……ろりこんさん」

「おめえに愛と性欲の区別はねえのか。少なくとも、女としては見てねえよ」

「ふうん。ならあたしには、『そういう』感情で見てくれる?」

「すまねえ、全く惹かれねえんだよ」

「そんなこと言っちゃって~、本当は気があるよね? 何なら一緒に寝てあげても――」

「ふざけるのもいい加減にしろ。用件を話せ。何かあるんだろ」

 

 えへへ、とレティシアは、惚気るような笑みを見せてから言った。

 

「少し聞きたいんだよねー。なんでジャンヌちゃんとリュカくんの再会に、サミュちゃんが立ち会う必要があるのかな? せっかくなんだから兄妹水入らずで過ごさせてあげようよって思っちゃうなあ」

 

 なんだ、そんなことかよ。

 

「……おめえなら知ってんじゃねえのか? ジャンヌには悪魔が潜んでいるんだよ。不幸な境遇を強いる神も、それを信じる人間も、この街の全てが許せなくなるくらいの悪魔だ。また出てくるかも分かんねえ。俺はさ、またこいつが暴れださないか気になってんのかもな」

 

「悪魔? それがどうかしたのかな? そんなことをして、あなたに何の得があるっていうの? 直接あなたに危害は加えられないよね?」

 

 真っ当な意見だった。でも何故か、俺のどこかの感情が、それを許さないのだ。

 

「――大問題だろ。とにかく、こいつの前で『神』だの『楽園』だのは禁句だ。俺だって殺されかけたんだぞ。せいぜい気を付けるんだな」

「ふうん……。でもこの子を助けた神さまは、ここにいるんだけどねぇ」

「ジャンヌにとって、おめえは優しい人間だよ。どうあがいても、恩人どまり。神としては見れねえさ。俺にとっておめえがクライアントにしか見えねえのと同じだ」

「かなしいなー」

 

 貧乏ゆすりをしながらレティシアは頬を膨らます。

 次の瞬間、彼女はニッと口角を上げた。

 

「でも、そんなことどうだって良いんだ。……あたしもね、同じなんだよ? あたしにとって、街の人間は人間には見えなくてさ、あんなの、お人形さんにしか見えない。ここにいるジャンヌちゃんも。だから、あれはあたしのものにして良いよね?」

 

 ジワリ、不穏な空気が部屋に満ちる。

 

「……少し勘違いしてたな。おめえはジャンヌに感情移入してたんじゃねえのか」

「それはある意味で本当かなあ。可哀想な子だよね。たった一人のお兄ちゃんが謂れのない罪で殺されちゃってさ……もうっ、守ってあげたくなっちゃうよ」

「だからこうして、危険を冒して俺に依頼したんじゃねえのかよ。人形で偽装までして引き取ったんじゃねえのかよ」

 

 レティシアは紅茶を啜って、暖かな吐息を俺に吹きかけた。

 

「ううん。肝心なところが違うの。ここに居るのは、あたしの創ったジャンヌちゃんなんだ。人間のジャンヌちゃんは、あたしからすればもう処刑されちゃって灰になってるの。ここに居るのはあたしの『愛』の結晶。あたしの『愛』はお人形さんにしか捧げない。そしてお人形さんの繰り広げる劇が、あたしはずっと見たい。それだけのことだよ」

 

「何が言いたい」

 さっきから何を言ってる? 意味がさっぱりだ。

 

「だからさ、本当はね、壊しちゃっても良いんだよ。動かなくなるのはちょっぴり悲しいけど……まあ、新しく作れば良いからね。あたしにとって、お人形さんはその程度の存在なんだー」

 

 反論しようとしたが、言葉が出ない。頭がくらくらする。

 

「あたしが人間に見えてるのは、あと、サミュちゃんだけ。でも、その人間のサミュちゃんが、あたしの人形さんに特別な感情を持ってるんだよ。あたしね、ちょっと妬いちゃった。とっておきの劇を、見せたくなっちゃった」

 

 唐突に、頭を支配される感覚がした。

 次第に、瞼が重くなる。首を支える筋肉が弛緩して、ソファに全身の体重を預けるように寄りかかった。意識は起きようとしているのに、力が入らない。

 

 やがて意識すらも、微睡みの中に落ちていく――。

 

「どうして……。まさか、紅茶……!」

 

 抵抗する俺を、レティシアはつまらなさそうに頬杖をしながら眺めていた。

 

「やっぱりサミュサミュ、気が緩みすぎじゃないかな? 誰も信じない! なんて大口叩いてる割に、こんな簡単な方法に負けちゃうなんて……らしくないよ? 本当に変わっちゃったのかなあ? やっぱりジャンヌちゃんが原因なのかなあ」

 

 薄れゆく意識の中で、ジャンヌのことが気にかかる。

 

「……うーん、壊しちゃおっか」

 

 女の声が、無駄に意識に残った。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 目覚めると、俺は暗い空間にいた。天井は手の届くほど低い。五十人くらいが入れる部屋のようだ。光は天井の窓から入ってくるだけだった。

 

 椅子に座ったまま身体は拘束されていて、何か球体が口の中に埋め込まれている。吐き出そうとするが、顔の周りに巻き付いたバンドがそれを許してくれない。声を出そうとしても顎が動かない。フューフューと息が口から洩れていくだけ。声が出ることはない。ボールギャグというやつだろう。何度か魔女裁判で見たことがあるが、実際に掛けられるのは初めてだ。

 

「おはよっ、サミュサミュ」

 

 どこからか声がした。姿は捉えられない。恐らく、レティシアは後ろに立っている。

 

「あたしね、考えたんだ。あたしの気持ちを理解してもらうにはどうしたら良いかなって。それで、あたしの劇を見てくれたらきっと分かってくれると思ったの。だから、ちょっとだけ。お人形劇の観客さんになって、ね?」

 

 ブーというブザーの音が鳴る。レティシアの人形劇が始まる合図だった。

 レティシアの囁きが耳朶を打つ。

 

「えーっ、これよりお客様にご覧いただくのは、とある兄妹の悲劇でございます。脚本大道具小道具は全部あたし、レティシアが担当いたしました。演者のお人形さんは自律して、リアルな演技を見せてくれます。それでは開幕です! はじまりはじまり~」

 

 ここがシアターだということにようやく気付いた。

 レティシアが一つずつ天井の窓を閉じていく。あっという間に部屋は暗闇となる。

 財を持て余すレティシアにしか作れない、個人所有の劇場だった。

 

 ここで、何が始まる? とある兄妹の悲劇……悲劇? 俺は何を見せられる? ジャンヌは、何をさせられるんだ?

 

 レティシアの劇が始まる。

 前方で火が灯り、光に照らし出される。一段と高くなった壇上に、鉄格子の牢獄が二つあった。左側にベッド。少女が寝ている……ジャンヌだ。もう一つの鉄格子に家具はなく、男が横たわっている。誰だ……? いや、見覚えがある。茶髪の男、筋肉質だがやけに色白で、しばらく外に出ていないことが窺える。リュカ……、俺が『楽園』へ誘った一人だ。

 

「リュカ、さあ、目覚めて! あなたが最も恋しい人が、すぐ傍にいるわ!」

 

 レティシアが高らかに宣言すると、声に反応するようにリュカは立った。身体中に残る傷は、鉱山事故の悲惨さと、宗教裁判の冷酷さを想起させる。

 それでもリュカは立つ。見回して、もう一つの鉄格子の中を睨んでいた。

 

「ジャンヌ……! ジャンヌなのかい?」

「……その声は、お兄さん」

 

 ジャンヌが身体を起こし、男と目を合わせる。

 ――生き別れた兄妹の邂逅だった。

 

「そうだ。リュカだよ。まさかジャンヌ……。君も街の人から裏切られてしまったのかい?」

「ううん、わたし。そんなんじゃない。そんな綺麗なものじゃなくて……」

「いいんだ!」

 

 次の瞬間、リュカが鉄格子に飛びついた。

 

「言わなくて大丈夫。街の人間は、君に酷い扱いをしてきたんだろう。それでも、よく生きててくれた。怖かっただろう。でも、もう大丈夫だ。こうして会えたんだ。あとはこの『楽園』で、一緒に生きていこう」

「……うん」

 

 何故だろう。兄は妹に飛びついているのに、妹の感情は薄い。身に余る業を背負っているからだろうか? 少し違う気がする。

 

 ……異常なのは、妹じゃない。

 

「僕はね、信じてたんだ」

 

 ジャンヌの眼が、少しだけ変わったような気がした。

 

「なにを」

 

 リュカはそれが当然であるかのように、自慢げに語る。

 

「もちろん神さまだよ。この『楽園』の神さまだ。レティシア様は、きっとジャンヌをここに連れて来てくれるって、僕は毎日ずっと祈りを捧げてきたんだ。世界のどこかでジャンヌは生きててくれてる。そう信じるだけで僕は、救われたんだよ。そして、神さまの言う通り、僕らは出会えた。もう僕らを傷つけるものは何もない。これからはここで暮らしていこう。僕らは、神さまに救われたのだから……」

 

 ――今見ている光景は、果たして夢なのだろうか。

 事故に巻き込まれ、責任を全て押し付けられ、疎まれながらこの世界を去った。そんな不幸な兄妹が、今こうして再会を果たしている。

 

 引き受けた仕事の果てにあるものを、今の俺は見せつけられていた。

 平和的な解決。ハッピーエンド……?

 

 おとぎ話は終わる。再会を果たした二人は、いつまでも幸せに暮らしましたとさと、絵本は閉じられる……? めでたしめでたし、物語にはエンドマークが付けられ、本は閉じるはず……? 壮大な拍手と口笛と共に、舞台は幕を閉じ、それでもカーテンコールが鳴りやまなくて、観客の心を奪いながら、演者は舞台を去っていく。感動は、いつまでも観客の心に残り続ける……。それが、俺の観たかった、レティシアの魅せたかった、『劇』じゃないのか?

 

 ジャンヌが望んでいたもの。いつからか、俺が願っていたもの。

 その全てが今叶い、回収すべき伏線は全部回収して……。チェーホフの銃などどこにもない、完璧なラスト……。

 

 それがこの光景か? だったら……。

 

 

 

 

 

 なんで今、ジャンヌの身体は、ビクビクと痙攣しているんだ……?

 

 

 

 

 

「兄さん、うそ……」

 

 ジャンヌは震えていた。恐怖に打ち震えていた。小さな体全部が、兄に対して拒否反応を示していた。やめろ、何でもいい、俺は願う。声にならない声で祈り続ける。

 

 このまま終われ。さっさと舞台の幕を下ろせ!!!!

 

 ……どれだけ、そう願っていただろう。おそらくその間、二、三秒だ。須臾の間に、俺はありったけの想いを込めていた。それでも願いは届かない。幕は下りない。何者かが、舞台を下りさせない。

 

 誰が? ――神がか? そんな存在が、この世界のどこかで、或いはこの世界の外側の世界で、嘲笑っているというのか? そんな存在の思うがままに、台本は進むというのか?

 俺の眼は前を見ることしかできない。この舞台に俺は手出しできない。

 

 目の前では、二人の兄妹が見つめ合う。人形劇? そう思えば、そうなのかもしれない。目の前の光景は、「神」の望んだ通りにしか動かない世界。

 いわば、上位存在の玩具。見えない糸が、どこかから彼らを操っている。

 

 リュカにとっては、ジャンヌは穢れなき妹なのだろう、舞台の中央を挟み、ジャンヌのいる鉄格子に向かって、リュカは言葉を紡ぐ。

 

 それは、悲劇へのターニングポイント。

 

「――さあ、一緒に。神さまへ祈ろう。『楽園』の神さま、レティシア・ルミエール様に」

 

 遠くから見る俺でも分かるくらいに、ジャンヌの動悸は収まらない。

 それでもリュカは気付かない。ジャンヌにとって、それが地雷であることに。

 

「さあ、神さまだよ。ジャンヌだって信じてただろう。その神さまは僕たちを救ってくれなかった。でもここは『楽園』。新しい神さまが全部与えてくれる。僕らが信じるべき神さまはここにいてくれるんだ。神さまを信じていれば、悪いことは何もないんだよ」

 

 優しくリュカは語り掛けた。それが、罠だと知らずに。

 それは、存在しないもの。存在しないものの名を、ジャンヌは間近で聞き遂げる。

 しかもそれを満面の笑みで語るのは、ずっと会いたがった相手で……。

 

 ――やめろよっ!

 

 俺は身体をひたすらに動かす。叫びたかった。だがその言葉は声にならない。レティシアの拘束は固かった。解くことは俺の力ではできない。

 

「この『楽園』は神さまのものなんだよ。さあ、一緒に神さまに感謝の言葉を述べよう」

 

 神さま、神さま、神さま……。リュカは「それ」の名を語り続ける。

 聞いていられなかった。だが耳を塞ぐ腕すらも拘束されていた。

 ジャンヌの口は塞がらない。大量の涙を浮かべながら、うんうんと首を横に振っている。

 

「あ……う……」

 

 ジャンヌの何かが、壊れた音がした。

 唐突だった。ジャンヌが鉄格子に掴みかかる。耳に痛い金属の音が劇場の中に響く。

 

「ジャンヌ……?」

「ごめんなさい、兄さん。わたし……もう穢れてる。兄さん、もう、許せないよ。わたしも、にいさんも、わたしは許せないっ! ……ああああああああああっ!」

 

 悲鳴と共に、ジャンヌの瞳の光が……消えていく。

 

 俺の知っているジャンヌが、どんどん変わってしまうようだった。何か、この世界ではない何かに取り憑かれたようだ。幼い少女が、目の前の男を襲おうとしている。それでも、ジャンヌの理性は残っているようだった。身の内に潜む何かと闘うジャンヌの様子が、痛いほど克明に伝わってくる。

 

「兄さんの信じる『それ』が、わたしたちを引き裂いた。みんなの信じる『それ』が、兄さんを殺しかけた。なのに……どうして! 兄さんは、どうして、それを信じられるの!」

 

 流石に、リュカも気付いたようだった。

 

「どうしてって、神さまは、そこにいらっしゃるじゃないか。当たり前のことだよ。今までの大変さは、神さまの試練だったんだ。僕たちはようやく乗り越えたんだよ」

「話に、ならない」

 

 ジャンヌの脚が震えていた。たどたどしい足取りで後ずさり、そのまま転んでベッドに倒れる。ひっくひっくと、しゃっくりの声だけが響いて動かない。

 

「ジャンヌ!」

「もう、近づかないで! ずっと、しんじてたのに!」

「ジャンヌ……ジャンヌ! さあ一緒に暮らそう。この平和な世界で、神さまに認められた世界で、僕と一緒に生きよう!」

「やめて……こないで、殺して、殺して……」

 

 もう、やめろ。どうして俺は、何もしてやれないんだ。俺はどこまで無力な存在なんだ。

 

 ――この状況を変えられるのは……誰だ?

 

 そう思った時、灯りがふっと消えた。

 

 視界が暗闇に包まれる。この灯りを消せるのは……上位存在。即ち、神しかいない。街にいた神じゃない。この箱庭世界の光。『楽園』の神。

 

 再び、火が灯る。蝋燭の灯が壇上を照らす。

 鉄格子の牢獄の外を、自由に闊歩する影。

 

 それこそが神だった。

 

 その名は、歓喜の光明――――レティシア・ルミエール!!!!

 

 舞台の上に現れたレティシアは、リュカのいる鉄格子に向かって語り掛ける。

 

「――リュカちゃん。ごきげんよっ! 何か、お困りかな?」

「神さま! いらしていたのですね」

 

 リュカはすぐさま膝をついて、頭を下げた。レティシアが一度だけ観客席に――俺に向かって微笑みかける。その後、這い蹲るリュカに素足を差し出す。

 

「ああ、神さま……なんと神々しいお姿で……」

 

 嘘みたいな光景だった。リュカは抵抗もなく、レティシアのつま先に口づけをしている。ジャンヌの目の前でだ。あり得ない光景が次々に広がっていく。俺の背筋が凍り続ける。

 

「ああ、私は……。神さまの仰る通り、此処に至りました。この舞台に上がれば、離れ離れになった妹に会えるかもしれない。神さまの御言葉は、確かに正しかった。ですが私の妹――ジャンヌは……どうしてしまったのでしょう。これから私は、どうすればいいのでしょう?」

 

 何もかもを捧げるような表情。一縷の望みに懸けるようにレティシアを見上げる。

 

「うーん、なんか色々面倒だね~。たぶんジャンヌちゃんはね、悪魔に支配されちゃってるんだろうね。実はあの子、君の知らないところでね、大量に人を殺しちゃってるんだよ。教会に火を点けてね、無関係な人をたくさん焼いちゃった……。ジャンヌちゃんの正体は、魔女だったのかもね」

「やめて……」

 

 絞り出すように言葉を紡いだのは、ジャンヌだった。兄にだけは知られたくなかった秘密が、今、『神』という絶対的な存在によって明かされている。

 

「そんな……」

 

 今度は兄が絶望を受ける番だった。それでもリュカは否定しない。実際にそれは事実で、何より『神』の言葉なのだ。リュカにはそれが、妹の言葉よりも絶対的な真実だ。

 

 ――目の前で繰り広げられているのは……ただただ、最低の光景。

 ジャンヌはリュカへの信用を失い、リュカもジャンヌへの信頼を落とす。

 兄妹の邂逅として、これ以上に最悪な状況があるだろうか? ある訳がない。

 

 俺は吐きそうになる。だがそれも許されない。声にもならない声を上げ続けるだけだ。

 レティシアは、勝ち誇るように笑みを浮かべる。そして語るのだ。

 

「あははは、ねえ、リュカちゃん。ジャンヌちゃんを救ってあげたい? あげたいよね? たった一人の妹だもんね! 早く頷きなよ、おいっリュカッ!」

「……救わ、れるのでしょうか。あれは私の妹ではなかった。ただの魔女だったのでしょう」

「なんてことないよ! あの子はね、悪魔に取り憑かれちゃってるだけだから。あたしは神さまだから、祓うこともできちゃうんだ。君が試練を越えたら、助けてあげちゃう!」

「そうなんですね、でしたら、神さま。お助けください! 私にできることとあらば、何でもしてみせます! 私の妹を、魔の手から救ってください!」

 

 リュカの即答と同時に、ん、とレティシアは無言で素足を出す。リュカは跪いたまま、足を舐め続ける。れろ、れろ、れろ……。それは、忠誠を誓うという符牒だ。

 

「おいで、子豚ちゃん!」

 

 レティシアは上手に向かって叫んだ。

 今度は何が始まるんだよ。俺はもう既に呆れ返っていた。

 既にこうなることが台本にあるかのように、三人の男が現れる。全員、見覚えがある……。そこでようやく気付いた。こいつら全員、レティシアの指示で俺が救った死刑囚じゃねえか。つまりはこいつらも、『楽園』の住人。レティシアの操り人形。

 

「さあ、試練よ。分からせなさい!」

 

 レティシアはリュカの鉄格子を開けると、続々と男たちが中に入っていく。

 そして、入るなり――何の躊躇いもなく、リュカの頭を踏みつけた。

 

「ううっ!」

 

 うめき声が一瞬するだけだった。男たちは容赦しない。横になった茶髪色白の男を、三人が取り囲む。殴っていく。容赦なく蹴りつける。髪を掴んで、ココナッツでも割るかのように頭を床に叩きつける。鈍い、嫌な打撃音が、延々と続く。リュカはうめきこそすれど、決して叫ばない。助けすら請わない。

 

 誰も救うことはない。高笑いしながら見下す存在が、ひとつあるだけだ。

 

「あはははは、さあ、耐えなさいっ! 妹を救いたいんでしょう、堪えなさいよ! あたしの気が済むまで、絶対に悲鳴なんて上げちゃダメなんだから! あはは、あははははははははははははは、あははははははははははははははははははははははは!」

 

 狂ってやがるっ! どいつもっ! こいつもっ!

 

 俺はジタバタするだけだった。未だ拘束は解けない。どんだけ固いんだよ。俺は力のなさを恥じた。本当なら今すぐ男たちに割り込んで、リュカを助けて……。いや、それでどうなるってんだ。リュカはそれを望まない。このまま殴られるのが本望だ。暴力を加える方も、加えられる方も、あの痛みが試練だと本気で思ってやがる。

 

 あれが、レティシアの娯楽――お人形遊びでしかないことが、見えないのだ。

 リュカは流血し、肋骨の何本かは折れているようにも見て取れた。白いはずの身体のそこら中に、赤黒い痣ができ始めている。このままじゃ、本当に死ぬぞ!

 

 やっぱ神なんて、クソッタレじゃねえか!

 

 俺は筋肉がねじ切れるくらいに、力を振り絞った。それでも、拘束は固いままだ。この場で自由に動くことは、人間には許されていない。人形は既に『神』の言いなりだ。今や、人形も人間も、『神』の支配下。そんな唯一神と対等に渡り合えるのは……。

 

 

 

 ――『悪魔』だけだ。

 

 

 

「はなして」

 

 突如、無感情な声が響いた。低い声。でも、女の声だと感覚で分かる。声量はさほど大きくない。にもかかわらず、三人の男は全員が動作をやめ、声の主を見遣った。試練を受けていた側も、腫れた目で声の主を見上げる。

 

 そこにいたのは、栗色の髪をした、悪魔。

 魔女じゃない。ジャンヌは人間だ。それを悪魔が乗っ取ったのだ。

 闇の瞳孔が、三人を見据えていた。

 

「はなせ」

 

 その言葉には、絶対に従わなければいけないような、強制力を感じさせる。

 

「このせかい、ぜんぶ、きらい。きもちわるい、うけつけない、さいてい」

 

 俺はふとレティシアを見た。全てのきっかけを作った女は、いつの間にか舞台脇に逃れて安全な場所から見守っている。口元は、心の底から楽しんでいるかのように、歪んでいた。

 

「みんな、みんな、殺す!」

 

 ジャンヌが、鉄格子の扉を掴み、そして力いっぱいに開ける。鍵が掛かっていたはずだ。しかし鍵ごと壊れたのか、扉は悲鳴のような音を轟かせて外れてしまった。

 

 ジャンヌは、もう一つの鉄格子に歩み寄る。男たちが少女の小さな身体を見下ろす。

 

「おい、嬢ちゃん。見て分かんねえのかよ。今はな、だいじなだいじなお兄ちゃんの試練だぜ。嬢ちゃんだって、神さまに認められてえんだろ?」

「そういうの、いらないから」

 

 ジャンヌの細い腕が、格子の隙間に入り込んだ気がした。刹那、拳が男の顔に当たる。

 

「……うがっ!」

 

 いつしか、男は顔に手を当てて仰け反っていた。俺には見えていた。ジャンヌの握りこぶし第二関節を尖らせて、骨の固い部分が男の眼窩へとめり込んだのだ。一瞬の出来事だった。

 

「クソガキッ、調子こいてんじゃねえぞ!」

 

 残る二人が、鉄格子を飛び出してジャンヌに殴りかかる。だがジャンヌは動じない。一人の足を払うと、仰向けになった男の鳩尾に拳を入れる。立ち上がると同時に、もう一人の男の喉仏を指先で豪快に突いて、舞台から落っこちた。

 

 一瞬で終わった。三人の男は、あっという間に倒れ込んで動けなくなっている。

 

「……や、めて……」

 

 絞り出すように声を出したのは、リュカだ。死ぬ直前の虫が出すような、掠れ声だ。

 

「やめない」

 

 ジャンヌが、今度はリュカにすら歩み寄る。彼女の光の欠片もないような瞳は、変わらない。まるで塵でも見ているかのように、虹彩だけを実兄に向けている。

 

「兄さんも、この世界も、もう何も、信じられない。全部、全部、もう、だいきらい。あなたを、殺す。みんなみんな、殺す!」

「ジャンヌ……目を覚ましてくれ。ああ、神さま! 僕は、試練を越えられなかったのか!」

「兄さん……ほんとうに、失望した」

 

 ジャンヌの右手が、リュカの喉元を掴む。少女の身に余る握力が、兄の気道を締め付ける。リュカは咳き込み苦しみ悶えるだけだ。抵抗する能力すら失ってしまっている。

 もう誰も、動ける者はいない。リュカの呼吸がどんどん弱くなっていく。

 

 ああ、これじゃ、俺は何のために……。

 ジャンヌは何のために、生かされてきたんだ。

 ――ふざけんじゃねえぞ、クソッ!

 

 俺は顎に力をこめ、拘束具を噛んだ。腕で暴れ続ける。身体中の筋肉が離れそうな感覚。だが力を入れ続けるのをやめない。俺の身体がどうなるのか、そんなこと、どうだっていい。

 

 全身の肉に、血液に、意識に、力が、宿る。自分の力以上の何かが、全身に滾っていく。煮え立った血液が巡り、俺の脳も心臓も足の先も回り、かつてないほどに硬直する。

 口元に挟んでいた球を、かみ砕いた。

 

「ジャンヌ、やめろっ。その手を離せよっ!」

 

 俺の第一声は、それだった。破片が口の中を切り裂いて、鉄の味がした。些細な問題だ。

 ジャンヌはリュカの首を抑えたまま、暗闇を一瞥する。だが見えているのは真っ暗な観客席だろう。俺からは見えても、ジャンヌから俺の姿は映らない。

 

 速く行かなきゃ。俺は拘束具を外していく。どれも血が回らないくらいに締め付けられていたが、一つ外せば後は楽だった。俺の身体は自由を手に入れる。

 舞台に駆ける。左の足枷がまだ残っていた。転ぶ。拘束していた柱を引っこ抜いて、足輪と共に駆ける。舞台に上ろうとすると、舞台から落ちていた男が足を掴んできやがった。ゴミのように蹴り払う。

 

 やっとのことで、俺は舞台に上がった。

 

「ジャンヌ、おいジャンヌ! もうやめろ」

「やめない」

 

 ぎゅうぎゅうと首を締め付けられた男は、口から泡を吹き白目を向いていた。それなのにジャンヌの手元はなお、顎も首も押さえ続けて力を緩めない。

 

「いい加減に、しろよっ!」

 

 もう、こうするしかない。俺は全身で走り抜け、ジャンヌにぶつかった。鈍い音がした。肩から、頭から、どこが当たったのか、自分でも分からない。大の男が少女にぶつかり、筋肉が歪み、骨が軋み、そしてようやく、小さな身体が吹っ飛ぶ。俺も一緒になって転げまわる。

 

 やがて俺の身体は、ジャンヌに覆いかぶさっていた。

 両肩を強引に掴んで、俺はジャンヌの身体を床へ抑えつけた。俺は荒い呼吸で、自由を奪われた少女を見下す。自分で分かるくらいに、俺の胸は上下している。

 

「……サミュエル? ああ、これ……ちが」

 

 ジャンヌの表情を間近で眺める。息を呑んだ。死人のような、表情のない顔。色のない顔。生気なんて感じられない、死人の表情だ。

 

「わたしは、兄さんが憎いんじゃない。わたしは、わたし自身が、分からない。わたしはもう、何をすれば良いのか、分からない」

「ああ、分かってるさ。だからもうこれ以上、自分を傷つけるのはやめてくれよ! おめえを見てるとムカムカすんだよ!」

 

 自問する。俺は、コイツを……どうしたかったんだ? そもそもなんで、俺は割り込んだんだよ。俺は、俺だけしか、信じないんじゃなかったのか?

 

 馬鹿野郎、違うだろ。こいつは、俺なんだよ。復讐も行動原理も全部なくなって、ただ破滅を求めるだけの俺なんだよ。だからこんなに、ほっとけないんだよっ!

 

「おめえはさ、もう誰も殴らなくて良い。誰も殺さなくて良いんだよ。いいからやめろ!」

 

 それでもジャンヌは、首を振るのだ。

 ジャンヌは淡々と語り続ける。

 

「わたし、今まで街の人間をばかにしてた。あの人たちは、存在しないモノを信じて動いてる。存在しないモノの為に、自分を犠牲にするし、人を裏切る。みんなみんな、嘘偽り。存在しないモノで、兄さんは死んじゃった。わたしが信じられるのは兄さんだけだったのに……だからなんでもやってこられたのに、兄さんが生きてるって聞いて、信じれたのに……その兄さんも、ずっと、もっとひどい神さまを信じてる」

 

 初めて、ジャンヌが自分でソレの名を口にした。

 あまりにも、あっさりとした口ぶりだった。

 

「でも、もうわたしは壊れちゃってて、神さまなんて信じることはできなくて、そしてソレを信じるにいさんも信じられなくって、だったら……だったら……」

「言うなっ!」

 

 叫ぶようにして言った。だがジャンヌは続ける。

 

「……わたしはこれから、何を信じればいいの。何が信じられるの? わかんない、わかんないよっ! わたしは……わたしは……だから、もう、こうするしかない」

 

 ジャンヌの呼吸が荒くなる。突然、心臓が跳ねた。しゃっくりだった。その瞬間から、瞳からは滝のように涙が零れていく。

 俺はジャンヌの身体を支え、寄り添うことしかできない。

「サミュエル、あなたは何を信じられるの? どうして自分しか信じずに、生きていられるの」

「あ、俺か?」

 

 俺は……。そうだよ。そこもジャンヌと同じなんだ。

 

「おめえらを見て気付いちまったよ……俺だって、一人で生きてるんじゃなかったんだ」

「ん、サミュエルは、一人じゃなかったの」

「俺の心の中には……ずっとクリストフがいたんだよ。だから復讐しようって思えたのかもな。例えばこの世界にクリストフがまだ生きていて、事件の真相を知った上でシルヴァンに忠誠を誓うんだったら……まあ、俺は耐えられねえ。もう本当に何もかもが、どうでも良くて、おめえみたいに、なんでもするようになっちまうのかもな」

 

 そう思えば、怖くなった。だから俺は、ジャンヌの身体を抱き留める。

 絶対に両肩から手を離さないように、ガッチリと。

 ジャンヌの震えは止まらない。

 

「だったらさ、わたしの気持ち、分かってくれるよね、サミュエルをさ、信じさせてよ。わたしはサミュエルなら、信じられるよ? ねえ、信じても良い? 信じさせてよ、そして、絶対に裏切らないで」

 

 うるうるとした瞳で、ジャンヌは俺を見つめていた。信じるモノから全てを裏切られ、何かに縋りつこうとする瞳だった。溺れる者が藁をも掴むように、ジャンヌは俺を信じようとしている。

 

 その目を見て気付いた。

 

 

 

 ああ、この子は。ジャンヌは。

 誰からも愛されず、もう誰からも愛されないって、悟ってしまったんだな。

 両親を早くに失くして、兄の炭鉱での仕事は苛烈を極めていて、その兄の像も今は砕け散って、この子は……もう、誰からも救われない。

 

 

 

 気付けば俺は、ジャンヌの後ろに手を回して、抱いていた。

 

「でも、わりぃ、俺の全てを信じろなんて言えねえよ。そんなこと言っちまったら、俺がいなくなった時、またこうなっちまうだろうがよ」

「だったら、殺してよ。わたしには、もう、なにもないから」

「それもできねえよ。俺の復讐は終わった。仕事以外で人を殺すなんて、俺にはできねえんだ。だから、俺はこうすることしかできねえ」

 

 それは、触れ合うこと。まだ小さくて角ばった身体を、俺は丁寧に撫で続ける。

 すると、ジャンヌの両腕も、いつしか俺を包み込んでいた。

 

「……苦しいよ、ねえ。こうすれば、わたしの苦しみは収まるのかな」

 

 感触。感触。物理的な感触。それは動作以上の意味を持たなかった。あくまで表面的な感触で、物理的な圧力でしかなかった。こんなので痛みが和らぐはずない。

 

 だから俺は言う。

 

「なわけねーだろ。抱擁っていうのはな、こんな恰好だけのもんじゃねえんだよ」

 

 ジャンヌの柔らかい頬に、俺の胸板を押し付けた。

 今度は俺の心音を、ジャンヌに聞かせる番だ。

 

「俺たちはな、生きてるんだよ。俺たちの感情は、分け合えて、受け止めることができるんだよ! 信じるんじゃなくて、もっと頼れよ! おめえのその感情を、苦しみを、俺に押し付けろ。そいつら全部、俺が受け止めてやるから」

 

「……そんなことして、いいの」

 

「ああ。構わねえよ。だからこんな風に言葉があって、こんな風に触れ合えるんだろうがよ。おめえの内に潜むモノがどんな悪魔だろうが、おめえ一人で抱えきれねえんなら、その衝動で攻撃すんじゃなくて、人に分けろっ! 誰も受け止めてくれなくても、俺は全部受け止めてやるよっ。信じろとは言えなくても、頼りたいって言われればいくらでも手を貸してやる!」

 

 目を合わせながら叫んだ。ジャンヌの脳に届かせる。

 やがてジャンヌはゆっくりと頷いて、

 

「……わかった。あなたは嘘つかないもん。わたしの心が苦しい間、こうさせて」

「ああ、いくらでもやれよ!」

 

 そしてジャンヌは、生まれて初めて、本当の意味で人を抱くのだった。

 身体の締め付けが強くなる。それは死を覚悟する強さ。背骨が砕けるか、身体が引きちぎれるかという痛み。すごい力。悪魔的な力。だが確実に、凍てつくジャンヌの肌に、俺の体温は伝わっていく。彼女の素肌は冷え切っていることに、俺はようやく気付いた。きっと街の誰もが、そのことにさえ気づけていなかった。誰も温めなかった彼女の心を、俺のなけなしの熱が溶かしていく。

 

「ぁ……あったかい、くるしい……っあっ!」

「ああ、苦しい、体が千切れそうだ。でも続けろ。おめえが苦しい限り、力を緩めるな」

「……うん」

 

 ジャンヌの身に余る力が、俺を壊そうとしていた。

 俺を抱くジャンヌも、突如体に流れ込む温もりに身体が驚き壊れてしまいそうだった。

 

「くるしい、つらい……ううっ」

 

 段々と、ジャンヌの瞳が色を失くす。光を失った彼女の身体で、中に潜んでいた悪魔が目を覚ます。もしかしたら、そんな悪魔なんて最初から存在していないのかもしれない。それは悪魔ではなく彼女の孤独なのだと思うと、俺の心までが締め付けられる。

 

「まだ足りない……。全然足りないよっ。わたしは、あなたを壊してしまうかもしれない」

「俺は余裕だよ。どれだけだって耐えてやる。壊すつもりでやれ、子供の遠慮なんていらねえんだよ。俺に構わず気の済むまでしがみつけ!」

 

 ジャンヌは目を思い切り瞑った。そして体を縮こむようにして俺を抱いて、そんなジャンヌに俺は覆いかぶさっていた。

 

 もはやどちらがどちらなのかも分からなかった。彼女が今は何者なのか、悪魔が存在するのかどうか、俺の方がジャンヌなのか、それすらも曖昧になる。

 

 感覚も、感触も、感情も、やがて時間すらも、覚束なくなって。

 

 それでも、この孤独な少女の為に、全てを捧げた。

 

 そして、永遠のような長い時間が過ぎた頃――。

 

 力が、ゆっくりと緩んでいって――。

 

 やがて、腕が、だらりと垂れた。

 

「終わったか……」

 

 ジャンヌはゆっくり首を縦に振った。二人の深呼吸の音が、ずっと響くだけ。身体に残るのは体幹部に残る僅かな痛みだけだった。

 

「ほら、やっぱり無事だ。なんてことねえよ」

「うん」

「おめえはどうだ?」

「うん」

「――おい」

「うん」

 

 ジャンヌの顔は赤くなっていた。熱、だろうか。でも本人は、そのことに気付いていないみたいだ。ジャンヌは放心状態のまま、淡々と告げる。

 

「なんか、まだ、苦しい。寂しいし、つらい。でも、なんか痛みは弱くなってて、体が軽くなってて、あとは……」

「――あとは?」

「なんか……気持ち悪い」

 

 想定外の言葉が出てきて、俺は肩を落とす。

 

「は、気持ち悪いだ? 俺だってこんなキザったらしいのは恥ずいんだよ。真剣に言ってんだから空気読め」

「ううん、そうじゃない……。なんか胸の中がぽわってきて、そっか、これ……」

 

 ジャンヌは胸に、手を当てた。

 何故だかその瞬間、とても大きくて、とても温かなものに包まれている気がした。

 

「これが、愛なのかな」

 

 何か遠いようなものを見ているかのような目。

 味わったことのない風味に浸るかのような表情。

 芯まで本来の体温で満たされて、この世界の温もりを直に感じ取っていた。

 

「――そっか。やっと、悪魔から解放されたんだ」

 

 俺は深い息をつく。ジャンヌのその顔が見られて、本当に良かった。

 

 そして俺は願う。神さまがいるかどうかなんてどうでも良い。だがもし、運命を決定づける者の存在がいるのならば、この少女に自由を与えてやってほしい。

 運命を決めるのが俺自身であるならば、この子の為に俺は全力を尽くす。

 心の底から、そう祈る。

 

 ――と、その時。

 

「ああ、そうか……うう……そうだったんだ」

 

 横で、ジャンヌが一人、頭を抱えていた。何があったんだと思っていると、ジャンヌは一言。 

 

「ごめんなさい」

 

 ただ、呟いていた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……。あなたたちは、あなたたちの信じていた神さまを信じていただけだった。存在するか、存在しないかなんて、どうでもよかった。わたしと同じな人たちだけ。信じたいものにすがって、自分のなすべきことを探している人たちばかりだった。そんなあなたたちを、わたしは……。ごめん、なさい」

 

 少女は謝罪を繰り返す。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 誰に対しての謝罪なんだろう。聞くまでもない。きっと、彼女が奪ったもの全部へ、届かせたいのだろう。声が枯れても、少女は唇を動かし続けていた。誰にも届かない声を発し続ける。彼女の涙は途絶えなかった。いつまでも、いつまでも、少女は謝罪を続けていた。

 

 そんな少女に俺ができることといえば、身体で寄り添うことだけだ。

 舞台の上で、彼女の涙も鼻水も、俺は受け止める。すぐ傍で、いくらでも受け止める。

 

 どれだけ長い時が流れても、俺は嗚咽が枯れるまでずっとそばにいてやる。

 

 しばらくすると、ジャンヌの泣き声が落ち着いた。

 

「気が済んだか?」

 

 ジャンヌはおもむろに、首を縦に振るのだった。

 だったらもう、十分だ。

 

「なあレティシア! ジャンヌを『楽園』から出せ。もうここでは暮らせねえよ。ずっと黙って見てるつもりか」

 

 俺はレティシアに向かって叫ぶ。あいつは隠れて、舞台袖からずっと見ていたのだ。

 叫んでもだがレティシアはずっと出てこない。後ろで震えたまま声が出る。

 

「どういうことなの? ジャンヌちゃん……あたしじゃなくて、サミュエルを選ぶの? サミュエルもこの『楽園』に来ないの?」

「ざけんな、誰が入るかよ」

「ジャンヌちゃん、あたし、あなたを救ったの? あたしを信じてよ!」

 

 ジャンヌも首を横に振る。真横から俺の手を握りしめ、レティシアに語り掛けた。

 

「……もう大丈夫。誰かを信じることも、信じた人に裏切られることも。全部全部、大丈夫になった。わたしは、もう、生きていける」

 

 レティシアが怯えるような表情で俺たちを見ていた。そうかと思えば急に口を開いて、笑い声を上げながら歩み寄ってきた。

 

「あは、あはははは、あはははは、なんで? ねえなんで? あたしがあなたたちを救ってあげたんだよ。あなたたちにとって、あたしこそが神さまなんだよ。あなたはあたしに逆らえないよ。街の人間も、お兄ちゃんも、みーんなあなたを裏切って、ジャンヌちゃんの心はもう壊れちゃって、サミュちゃんの心も、もう壊れちゃってるはずなの! 二人とも、もうあたししか、信じられないんじゃないの? そうと言いなさい。おい、言えよっ!」

 

 レティシアは錯乱していながら、めげることもなかった。どこまでも歪んだ笑みを、俺たちに見せつけてくる。

 

 そんなハリボテの笑顔に、負けてたまるか。

 

「何勘違いしてんだ。ジャンヌも俺も、もうおめえを信じねえよ。神さまごっこは終わりだ」

「ねえジャンヌちゃん、あたしがあなたの新しい神さまになるわ! 神さまがダメなら、お母さんになってあげる。一緒に暮らしましょうよ!」

 

 気持ち悪いほどに明るい表情で、レティシアはジャンヌに手を伸ばす。

 

「あたしを信じて! そして、ここでずっと暮らすの。この『楽園』はね、あたしのもの。あなただって、自由にさせてあげるよ。あなたはあたしが愛してあげる。大丈夫、あなたの信じていた神さまはあなたを裏切った。お兄さんだってあなたを裏切った。でも、あたしはあなたを見捨てたりしない。ずっとずっと愛してあげるもん。お兄さんとの仲直りだってさせてあげる。あたしにしかできないよ。だって、ここにいる『楽園』の住人たちはみーんな、あたしの可愛い可愛いお人形さんなんだもん!」

 

 パン、乾いた音がした。

 そして静寂が、舞台を包み込んだ。

 ジャンヌの平手が、レティシアの頬に命中したのだ。

 

 レティシアは顔を横に向けたまま、動かない。何が起こったのか理解できないといった表情だ。そんなレティシアに諭すように、ジャンヌは言う。

 

「サミュエルが教えてくれた。わたしたちは生きてて、この感情は分け合える。だから、わがままだと思うけど、わたしは……もう少しだけ生きてみたい! この感情を、分け合ってみたいよ!」

 

 駄々を捏ねる子供のように、ジャンヌは叫んだ。

 ジャンヌが初めて声を大にした瞬間だった。

 

「……あは、じゃあ、あたしの為に生きればいいんだよ。私を愉しませる為に、私の人形として働けば良いんだよ。ここにいてもそれは出来るよ。外に出る必要なんて……」

 

 俺は、胸でレティシアを小突く。

 

「なに? なんのつもり?」

「……もうやめろ。ジャンヌはやっと、信心を見つけたんだ。もう、おめえの人形じゃねえ」

 

 愛情を込めた人形は意志を持つ。これは本当なのだろう。レティシアの人形だったジャンヌは、現にこうして意志を持ち、独り立ちしようとしている。

 ジャンヌは既に悪魔を克服している。いくらレティシアでも、それは予想外だった。レティシアは頬に手を当てて小刻みに震える。

 

「……ううん。ダメだよ。あたしはあなたの人生を買ったんだよ。高いお金を使って、体も張って、あなたの身代わりを作ったんだよ。あたしがいなかったら、あなたはそのまま死んでたんだよ? 命の恩を、私の愛を、仇で返すの……」

「本当に『愛』を捧げてんなら、愛する相手の自由くらい守ってやれよ。おめえのやってることは、迷惑な親とおんなじだろうが」

「うううっ!」

 

 レティシアは両手で自分の顔を覆った。そして、ぼそぼそと小さな声で呟いていた。

 

「……愛してよ。ジャンヌ、サミュエル。あたしを……愛してよ。あたしは、あなたたちが大好き。だから、あなたたちの愛も、あたしにちょうだいよ……。どうして私を、愛してくれないの……」

 

 その声を聴いて――。

 なんとなく、共感してしまう。

 

 こいつも、憐れな人間だったんだな、と。

 人から絶対的な信頼を得ることを、愛だと信じ切って……。

 好きな人を絶望の底に落とし込んで、自分以外を見えなくして……。

 危険を冒して『楽園』を作った理由も、分かってやれるような気がした。

 

「……そういうことね。もうあたし、いらないんだ。あたしは……もう、ダメなんだ」

 

 レティシアが後ずさる。やがて火に歩み寄って、燭台を手に取り――火をこちらに向けた。レティシアの頬を汗が伝う。呼吸の度に、蝋の炎が揺らめいていた。

 

「おい、何してんだ!」

「あなたたちがいけないんだよ。あたしの人形の分際で、神さまに逆らっちゃ。二人とも、思い上がりすぎだよっ。サミュちゃんとなら、一緒に『楽園』を動かしていけると思ったのに。ああ、だめ、生きていけないよ。あたしはこの衝動が、収まらないの」

 

 息を呑んだ。レティシアの眼の光が、消えていく。

 この女の絶望が顕現する。俺たちの心を奪えないことが、そんなにも恐ろしいことなのか。

 

「手を止めろ! 今すぐその燭台を置け!」

「あはははは、そう言ってくれると思ったよ。そういうサミュちゃんが、あたしは観たかったんだ。ほんと、心の底から大好きだよ」

「その告白、なんも嬉しくねえよ。もっとシチュエーションを弁えろ」

「だって、これがあたしの本当の気持ちなんだもん」

 

 レティシアは俺に触れるくらいに火を近付ける。咄嗟に俺も一歩引いた。するとレティシアは、勝ち誇ったような笑みを浮かべて言うのだ。

 

「ね? あたしが近付けば、動いてくれるでしょ。サミュちゃんがあたしの思い通りになるには、もうこれしかないんだよ」

 

 俺はジャンヌをかばうように立ち、後ずさる。火を持ったレティシアが、狂気的な笑みを浮かべて俺たちを追い回す。

 

「そこまでして俺を操りたいのかよっ」

「あはは、逃げて。もっと逃げてよ。あたしの掌で踊ってるあなたが、あたしは大好き! ずっと好きだった。復讐を目論んでるあなたも、希望を失くしたジャンヌちゃんも、あたしは大好きだったの! なのにどうして? ねえ!」

 

 これじゃ埒が明かない。だからもう逃げない。受け止める。近付いてくる蝋燭を俺は掴んだ。導線をつまんで火を消してやる。火の根本だから熱くはない。

 

「もう無駄だ。こんなことやめろ。もう何をしても、俺たちは神を崇めない。悪魔にだって支配されない。だから早く解放しろよ」

「あはは、ダメだよ。ここではあたしが神さまなの。そんなことで勝ったつもり? ねえ誰か! この二人を捕まえてよ! あたしのお人形さんたち」

 

 暗闇に叫ぶ。しかし、反応はなかった。そりゃそうだ。ジャンヌの人形は全員ノビている。

 

「ねえ、神さまの指示だよ。誰かいないの? おい、聞けよ!」

「もうジャンヌが全部片づけちまったよ。おめえが悪魔の手なんか借りたからだろうが」

「あはは、あは、あああ、あ……」

 

 レティシアの気持ち悪い作り笑いは、どんどん小さくなっていった。

 

 やっと終わった、か。

 そう一息ついた時だった。

 

「……許さないよ。あなたたち、もうユルサナイッ!」

 

 半狂乱状態のレティシアが駆け出した。劇場の出口を背中で塞ぐ。

 先ほどとは別の燭台を持ち、こちらを向いた。

 

「またかよ。いくら来ても同じだ。お前の思い通りにはなんねえんだよ」

「ううん……お人形さんがやらないなら、あたしがやるだけの話だよ。もう終わりだもん。こんな世界、あたしは認めない。世界を創り直すよ!」

 どういう意味だ? いや……。考えるより先に、俺は駆け出した。レティシアが、手を離す。俺もジャンヌもレティシアも、目を見開いてそれを眺める。煌々とした光を放つ燭台は、床に落ちる。もう間に合わない!

 

 小さな炎が床に移って、広がっていた。

 

「『楽園』が嫌なら、ここで灰になって。あたしだけに愛を注いで」

 

 レティシアは震える声でそう言って、扉を開ける。空気に触れた炎が勢いを増した。何故だろうか。見えない何者かの力が働いているかのように、火の回りはあまりに早い。あっという間に部屋を包み込んだ。逃げることも火を消すことも、もはや無理だ。

 

 俺はレティシアに飛び掛かる。だが燭台で殴られ地に臥せった。

 

「っ痛え、『楽園』ごと消すつもりかよ。おめえも死ぬぞ」

「それ以外ないじゃない! ほら、ジャンヌちゃんも掛かってきなよ。一緒に楽しい最期を過ごしましょう。あたしたちは、向こうの世界でも一緒だよ」

「ううん、だめだよ」

 

 ジャンヌが口を開いた。

 

「サミュエルは、悪くないから。逃がしてあげて」

 

 一瞬の出来事だった。ジャンヌがレティシアを突いた。両手の掌が突き飛ばす。

 レティシアが瓦礫に倒れ込んで、大きな音を立てた。

 そして、俺も突き飛ばされた。逆らえない力が、俺の身体を押した。転げ回って、俺の身体は出口を通って劇場を出る。

 

「ジャンヌ!」

 

 追い掛けようとしたが、瓦礫が転がって劇場の出口を塞ぐ。崩れる屋敷で、俺だけが分断された形となる。それでも、この場から逃げられなかった。俺は隙間から中の様子を窺う。

 

 レティシアは顔だけでジャンヌを見上げる。頭からは血が流れている、もう足が動かないようだ。血にまみれた顔面を晒しながら、レティシアはいつまでも笑っている。

 

「あはは、ジャンヌちゃん。やっぱりすごい、強い。なんでそんなに強いのよ? あたしは、何が足りなかったの! ねえ、なんで、あたしを神さまにしてくれないの!」

「……ううん。わたしは強くないよ。あなたは神さまじゃないし、わたしも悪魔じゃないから」

 

 ――次の瞬間、ジャンヌは両手を差し出した。

 

 血も通っていないような腕が、レティシアの首元に伸びる。レティシアは覚悟したように目を閉じて、身を捧げるようにして、頭を差し出していた。

 

「……やめっ!」

 

 足を踏み出して叫ぼうとしたところで、違和感に気付く。

 

 ジャンヌの両腕は首元を通り越して、柔らかくしなる。

 

「なに、するのよ」

 

 

 

 やがてその腕は、レティシアの首を包んで、優しく抱きしめたのだった。

 

 束の間の抱擁。一人の少女が、死を覚悟した女性を囲う。

 

 それは人と人の抱擁だ。

 

 俺は息を呑む。自然と足が止まった。

 

 人間の時間が止まったような感触。火だけが燃え盛っていた。

 

 

 

 やがて、轟音がした。どこかの柱が倒れ、火の粉が飛ぶ。俺は仰け反る。黒い煙が身体を包んで、肺へと思いっきり流れ込む。咳き込んで息を大きく吸うと、また煙を吸って咳き込んだ。

 

 息ができなかった。俺は独り、這い蹲って、明るい場所へと向かう。頭がガンガンと痛む。肺が焼けただれそうだ。二人は大丈夫かと案じて、身をよじらせながら、顔だけを劇場に向ける。

 だが、もう遅い。崩れた柱で、シアターの中は見えなくなっている。

 

「ジャンヌ! 逃げろっ!」

 

 返事はない。無理やり突入するか。いや、もう天井も危うい。ここももう限界だ。二人の身を案じながら、俺は屋敷の出口を探して転げ回る。

 

 やっとのことで『楽園』の庭に出た。外に出て初めて、もう日が落ちていることに気が付いた。黒い雲が空を覆って、星は一つも輝いていない。漆黒の闇夜。その中で、煌々と炎は屋敷を包み込んでいる。赤、橙、黒い煙と共に、『楽園』が崩壊していく。壁が崩れ、柱は倒れ、屋根が大きく落ちて煙が天空を覆い尽くす。

 

 悪魔が灼かれるように、本物の地獄が迎えに来たかのように、

 炎の勢いは、留まることを知らない。

 人の手ではどうすることもできない。

 俺は荒い息で、それを眺めるだけだ。

 

 体が痛む。頭もガンガン痛んで、呼吸をするたびに胸が焼ける思いがした。煙を思い切り吸ったせいだ。そうか、火刑になる連中は……こんなものが比じゃない痛みを味わいながら、死んでいったのか……。

 

 何故だろう、俺の瞼の裏に、クリストフの顔が映る。かつて俺と気楽に話せていた時の、穏やかな顔だ。頭の中では何故か俺がガキの頃に戻っていて。仲良く街を歩いていた。

 

 それは、もう戻らない光景。神さまが俺らに与えていた、平和な風景だった。

 ああ、そうか。クリストフ……。

 クリストフがここにいなくて良かった。

 クリストフが『楽園』の住人じゃなくて、本当に良かった。

 

 ……………………。

 

 ………………。

 

 …………。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 …………。

 

 ………………。

 

 ……………………光。

 

 自然の光……。茶色……。木目……。天井……。

 

 視界に移るものを列挙して、ようやく自分の意識に気付く。

 

 そうか……俺、生きてるんだ。動かぬまま、じっと木々の木目を見つめる。

 

 まだ、肺が痛む。表情は動かせない。じっと寝かされている。誰かに運ばれたのだろう。

 

 何も考えられず、記憶を漁ることもせず……ぼーっと天井を見上げ続けて……。

 

「そうだ。屋敷は!」

 

 俺は起き上がろうとした。が、身体の節々が痛んで仰向けに戻った。肌の至る所に黒い煤が付いている。むせて床に黒い痰を吐いた。

 

「安静にしないといけないよ。酷い火傷で一週間も寝ていたんだ。あの火事で生きていられたのが奇跡なくらいだ。何せ、一晩中燃えていたのだからね」

 

 聞き慣れない声。訛りが酷くて、頭に入ってこない。見ると、帽子の男が立っていた。二十代か三十代。筋骨隆々で若く見える。そんな男が、手元に黄ばみきったノートを広げ、もう片方の手でひたすら記述している。

 カルテ……? にしては、あまりに小さく不便だろうに。

 

「誰だあんたは。見ない顔だな」

 

 男は、帽子を取って一礼する。

 

「大変なところすまないね。私は、ハルトヴィヒ・アーレルスマイアーだ」

「……ラートビリ? 誰だよ」

「ああ、この地方の言語には慣れてないんだった、許してくれ。ハルトヴィヒ、だ。ユーフォリア帝国で生まれた。今はこうして世界各地を回ってるのさ」

 

 男はメモ帳にスペルを書いて見せてくる。見慣れた文字だが、見たことない並びをしている。なんて読むんだ、これ。男の言葉を脳内でゆっくり噛み砕くと。ようやく男の言葉が理解できた。

 

「ああ、旅人さんだったか」

「宗教裁判、そして公開処刑、全部見せてもらったよ。この街には何があったんだ。まだ幼い女の子が教会を焼き払うなんて。そんな女の子の首を絞めて遺体を焼くだなんて。君らの神さまは、悪魔と手を組んだのかい?」

 

 ああそうか。表向きにはそういう話になっていたんだっけ。

 俺は分からないといった風に肩を竦める。

 

「だったらこの街の宗教は酷いもんだな。悪いことは言わない。帝国の一神教やユースデイアの仙教にでも、今すぐ改宗した方が良いさ」

「宗教勧誘なら他の街をあたってくれ。この街は、ひっでえ狂信者しかいねえよ」

「……まあ、私は宗教の勧誘をしに来たんじゃないんだがね。私はルポライターをやってる。ノンフィクション作家と言った方が分かりやすいかな。世界各地の事件の裏側を、調査して、記述して、真実の中にある感動を、後世に広めていくのさ。もし良かったら、協力してくれないか」

「ノンフィクションで作家、か。良いご身分だな」

「はは、まあ、新聞ほど厳密さは求められないし、文芸みたいな心情描写もいらない。各地の裁判を巡るだけで物語は手に入るから、色々と自由にやってるさ」

 

 男は肩で笑っていた。

 

「協力の前に聞きたいんだが、あの屋敷はどうなったんだ?」

「……全焼らしい。本当に酷い火事だった。もう百体もの遺体が見つかっているそうだ。損傷が激しすぎて、もう男か女かも分からない。身元の特定はかなり難航してるよ。遺体の状況を聞くだけで吐きそうになる。知ってる顔を探しに行くときは、覚悟した方が良い」

 

 百体の遺体……『楽園』に、そんな数の人間が暮らしていたのか? 回らない頭で考える。

 ……違う。その百体は人じゃない。レティシアの造った人形も、含まれてるはずだ。

 クソ、もう何人死んだかも、わかんねえじゃねえか。

 

「ああ、くれぐれもだが。自殺なんてするんじゃないよ。どうやらあの火事がショックで、後追い自殺らしき遺体も見つかって大変なことになってる。驚いたよ、君たちの神さまは自殺を認めていたのだね」

 

 ああ、それも……違うだろう。そいつの自殺は、『楽園』を失ったせいだろうな。街では異端者、唯一暮らせるはずの『楽園』も失って……。あいつらの崇める神さまもああなって……。憐れなものだ。

 

 ハルトヴィヒは、手元の紙にどんどん書き込んでいく。時々目だけこちらに寄越し、笑いかける。それでも手は動き続けていた。俺の言葉と仕草の全てを、この世界に遺すかのように。

 

「ところで、大人ばかり屋敷に集まって一体何をしていたんだい? まあ、言いたくないことなら言わなくてもいいのだけどね」

「どうしてそうなる」

「……そういうことじゃないのかい? これまで見つかったご遺体は、大人ばかりさ。百人もいて、子供は一人もいない。中からは檻やら拘束具やらが見つかって、それはそれは、お楽しみだったみたいだね」

「うっ……!」

 

 なるほど、状況証拠だけ見ればそういうことになってしまうのか。それが後世に残るのかよ。

 最悪だ……。俺は眉間に皺を寄せる。

 次の瞬間、男の言葉の違和感に気付いた。

 

「……って、子供はいない?」

「ああ。いなかったんじゃないのか? これまで見つかった人らしきものは、全員大人ばかりだそうだ。未来ある子供が犠牲にならなかったのが、唯一ホッとしたことだよ」

「ああ、そうなんだ……。あ、いや、なんでもねえ」

 

 それなら、ジャンヌは、レティシアは……。どうなった? 今どこにいるんだ?

 

 骨の髄まで焼き払われて炭になってしまったか。

 

 それとも、あれから逃げおおせてどこかに雲隠れしてるのか。

 

 ――もう分からない。直接出会わない限り、知る術はなさそうだ。

 

 俺は嘆息を漏らす。死刑囚を囲っていた『楽園』は、もはや完全に崩れ去った。

 

「それにしても、この火事は……。まるで、ジャンヌ・アンドレウスが生き返ったようだな」

 

 ハルトヴィヒの口から、今考えていた名前がちょうど出た。俺は目を見開く。

 

「その名前、知ってたのか」

「ああ、思い出したくもない名前なら申し訳ない。実を言うと私はね、先日の大火事のことを聞きに来たんじゃないんだ。本命はジャンヌ・アンドレウス。か弱き少女が何故、連続放火魔となったのか。この街の過去に、一体何があったのか。あまりに凄惨な事件だからね。裁判の後もずっと調べていたのさ。そっちの事件の顛末を聞かせてほしい。彼女を記述することができたら、それは絶対に物語になる。人の心を動かすような、壮大な一つの物語だよ。処刑した君なら、彼女の人となりまで分かるだろう? 聞かせてくれないか?」

 

 戸惑う俺に、ハルトヴィヒは続ける。

 

「安心してほしい。君が語ったってことは伏せておくさ。死刑執行人は君しかいないから『看守の一人から聞いた』という体にしようかな。『彼女の手記が見つかった』でも良い。これでも私はね、インフルエンサーとしての自覚はあるんだ。プロとして守るべきところは守る。だから、安心して教えてほしい」

 男は純粋な瞳で、俺を見つめていた。手元にはまっさらな紙が広げられ、いつでも何でも記述できる状態になっている。

 

 その目は信用できる。俺は直感した。

 こいつなら本当のジャンヌを……。

 

 

 

 だったら、伝えなきゃな。

 俺は大きく息を吸って、

 遺したい真実を語る。

 

 

 

 

 

「ああ、よーく知ってるよ。アイツはさ、悪魔でも、魔女でも、なかった……。

 

 

 

 

 

 誰より純粋な、乙女だったぜ」

 

 

 

 

 

~帝国暦1752年 某国の田舎街。心無き少女に温もりを与えた本物の神の視点から~

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