ピリオドのない旅へ
Composer : TO-MAX
「今日、国境まで帝国兵が来てたんだってさ。猟師のおっさんが言ってた」
人気のないとある山の中腹、そこに控えめに開けた木陰がある。その柔らかな草葉に腰を下ろして、少年はそう言葉を紡いだ。
「ふーん……」
僕はその言葉を受け止めつつも、なるべく興味のない風を装って応えると、その隣へ座り込んだ。涼しい風が頬を撫でていく。
一日一度、僕たちはこの木を目印に集まる。いわばここは、僕らだけの秘密基地だ。示し合わせたわけではないけれど、二人が集まる時間はほとんど一緒だった。
肝心の会話はそれっきりで、しばらくの間無言の時間だけが過ぎる。けれど、不思議とそれは心地の悪いものには思えなかった。
それから幾ばくかが経った頃、隣の彼は不意に呟いて静寂を破った。
「戦争……本当に始まんのかな」
独り言のように放たれたそれは僕の返答を求めてはいないようだったけれど、気がつくと僕は言葉を返していた。
「さあ……分からない。けど、もしかしたら」
僕がそう答えると、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「帝国と戦争なんてしたら、うちの国なんて簡単に負けちまうよ」
「…………」
帝国――正しくは、ユーフォリア帝国。この世界で最も大きな勢力を誇る、唯一無二の大国。その国力ゆえの強大な軍事力で、彼の国は古くから他国を侵略・併合してきた。侵略を受けたこともあったらしいが、今もなお健在であることから、ちょっとやそっとの攻撃などものともしなかったらしい。
そんな侵略の魔の手が今、彼の住む国・ハキム王国に迫ろうとしているのだった。
「父ちゃんも戦うかもって、ずっと意気込んでる。死ぬかもしれないのに、何言ってんだろうな」
彼は空を眺め、呆れたように呟いた。声色こそ平静を保っていたものの、その横顔は確かに愁いを帯びていた。
「まあ、考えたってしょうがないよ。戦争なんて、僕らには決められないんだから……」
「……そうだな。……もう日が傾いてる、そろそろ帰ろうぜ」
「うん。じゃあね」
手をついて立ち上がると、僕たちは別々の方向へ歩き出す。彼とは毎日、ここでこうして何でもない時間を過ごす関係だった。彼と過ごす時は、何にも代えがたい大切なものだ。そんな時間を共有する僕と彼は、唯一無二の親友であると言ってもいい。
……僕が、ユーフォリア帝国民でなければ。
* * * * *
ユーフォリア帝国領、名もなき辺境の村。その村の一角に経つ家屋のベッドに潜り込んで、僕はずっと考え事をしていた。
「戦争……か」
人はなぜ争うのだろう。国家はなぜ戦争を起こすのだろう。人をただ傷つけるだけの戦争を、なぜ起こす必要があるのだろう。「戦争は国交における最終手段である」と学校で習ったことがある。けれど、それがあの少年を傷つけるのであれば、そんなのは間違っているようにしか思えなかった。
「はあ……戦争なんて、やめればいいのにな……」
彼の顔を曇らせる戦争が嫌いだ。親友の国を蹂躙せねばならない戦争が嫌いだ。
そして何より、彼に対して気の利いた言葉のひとつも掛けられない自分が嫌いだった。僕をユーフォリア帝国民と知りながら、今もなお彼は僕を慕ってくれる。その好意に甘えて、僕はずっと何も言えないままだった。
思考が煮詰まってしまい、大きく溜め息をつく。こんなことを考えていたら眠れなくなってしまいそうだ。今日はもう眠ろう。
あっという間に次の日を迎え、いつも通りのタイミングで僕はいつもの山に向かう。歩いて少しすれば、目印の木が見えてくる。そこにはもう既に彼が座り込んでいたのだった。
「遅いぞー」
「ごめんごめん」
口を尖らせる彼に手を挙げて謝る。いつも通り彼の隣に腰を下ろすと、彼はそれを待っていたとばかりに口を開いた。
「今日、うちの村に兵隊さんが駐屯しに来たよ。……本当に始まるんだな」
「……うん……そうだね」
彼の口からまた戦争の話題が飛び出して、思わず僕は肩を震わせた。その言葉に何と返していいか分からず、ただ当たり障りのない言葉だけを呟く。
「そういやここはちょうど国境だから……帝国はここを通って攻めてくんのかな」
「……多分ね」
目を閉じると、武装した兵隊や兵器がこの場所を通る情景がありありと浮かぶようだった。僕の、いや僕らの大切なこの場所を、これから人を殺さんとする兵隊に踏みにじられるのは許せなかった。
「あとさ、その――」
結局、その日彼の口から飛び出したのは戦争の話題ばかりだった。彼が家でどうしているのかは知らないが、自国が攻められるということで周りの空気も緊迫しているのだろうし、彼もその影響を受けているのだろう。
戦争の話題が出る度に、僕は何を言ってよいのか分からなくなってしまう。ユーフォリア帝国民であるという確かな自覚が罪悪感と化して、僕の肩に重くのしかかっている気分だ。
「……また何も言えなかった」
ベッドの中で溜め息をつき、天井を見上げる。
僕が帝国民でさえなければ、もっと素直にいろいろ話せていたかもしれないのに。何度もそう思った。それと同時に、それが言い訳でしかないことも分かっていた。どこの国に住んでいるかなんて関係ない。
明日はちゃんと話そう。帝国民としてじゃなく、一人の友達として。
* * * * *
次の日の朝。僕はいつもより早く目を覚ました。大きく伸びをして窓を覗くと、そこから見える空が少し白んだままなのが分かる。普段なら起きたらすぐ父さんの畑を手伝いに行くのだけれど、今はまだそんな時間でもないようだ。仕方がない、眠気覚ましがてら散歩にでも出かけよう。
普段着に着替えて家を出ると、少し肌寒い風が服の裾をはためかせた。それと同時に、様々な匂いが風に乗って漂ってくる。茂った草木の青臭い匂い。少しずつ咲き始めた花々の香り。そして、それに混じって一瞬鼻をつく煙の臭い。
……ん? 煙の臭い?
僕がその違和感に気づいたのもつかの間、遠くから聞こえた轟音が僕の心を揺さぶった。それは一発のみならず、二発、三発と続く。轟音に合わせて、煙の匂いはまた強くなる。
一体何事なんだ、これは? はやる気持ちを抑えて、家の裏で洗濯物を干していた母さんに声を掛ける。
「母さん! 今の音は……」
僕がそう尋ねると、彼女は憂いとも何ともつかないような横顔で、端的に答えた。
「……始まったんだよ、戦争が」
「……!」
言葉を失った。帝国は、僕の知らないところで王国に宣戦布告をしていたらしい。もちろんそんな国の事情など、僕たち平民に知らされるわけもない……けれど。今はそんなことを気にしている場合じゃない。彼は……大切な僕の親友は!?
気がつけば、僕の足は勝手に踵を返して地面を蹴っていた。
「どこへ行くんだい!?」
その言葉には耳もくれず、僕は全速力で村を出た。向かうべきはただひとつ、国境の山。
履きつぶした靴が土をはね上げる度、今までの思い出が胸の内に蘇ってくる。
せっかく「ちゃんと語り合う」って決めたのに。まだ話したいことがたくさんあるのに。もっと彼と過ごしていたいのに。戦争がそれを許してくれない。なんで。なんでだよ。僕はただ彼と幸せに過ごしたかっただけなのに。戦争なんて嫌いだ。帝国なんて嫌いだ。帝国に生まれた自分が嫌いだ――帝国なんかに生まれなきゃよかった。
走って走って、また走って。僕はいつもの秘密基地に辿り着いた。ふと地面を見ると、無数の足跡が伸びている。……やっぱり、帝国兵はここを通っていったんだな。
ここからだと、彼の住む村がよく見える。そこからもうもうと灰色の煙が上がっているのを見て、僕は溢れそうな吐き気を堪えた。
今ならまだ間に合う。全部終わってしまって、何もかも後悔する前に……行かなくちゃ。
再び走って国境を越え、ハキム王国の辺境へ足を踏み入れる。村の方角は確認するまでもない。煙の立つ方向へと急ぐ。村が近づけば近づくほど焦げたような臭いは強くなる。それに、血も――。
「うっ……」
嗅いだことのないほどの血の臭いに、堪えていた吐き気が再び込み上げる。
ダメだ。こんな所で崩れている場合じゃない。彼を探さないと。不快な気分を飲み込み、もう一度立ち上がった。
両国軍の目をかいくぐり。家から家を巡って回る。村の中は主戦場ではないようだったが、それでも幾人かの死体が転がっているのが見えた。
「違う、ここも……違う」
どこなんだ、彼の家は。駆けずり回るうちに不安な気持ちが心に芽生え始める。もしかしたら、彼はもう……。そんな言葉が思考の隅に現れて、僕はパチンと頬を叩いた。そんなことを考えるなんて、どうかしてしまったのだろうか。彼は無事だ。きっと。絶対。
訪れた家の数が両手に収まりきらなくなった頃、次に訪れた家に彼はいた。青ざめた顔をして震えている彼と、窓越しに目が合った。
「よかった、生きてた!」
ドアが開いた途端、開口一番にそう叫ぶ。本当なら彼を抱きしめたいところだったけれど、今はそんなことをしている場合ではない。
「ねえ、大丈夫――」
「め、目の前で、人、人が……死んで……殺されて……」
「…………」
彼はひどく怯えていた。きっと見たのだろう、この村で起きた戦闘を。無慈悲に光る切っ先を、流れ出る血を。
「俺、何もできなくて……父ちゃんも母ちゃんも、俺を庇って……」
彼の口からはうわごとのように言葉が漏れ出すだけで、錯乱している様子が見て取れた。どうして彼がこんな表情をしなければならないんだ。ただ平穏に暮らしていただけなのに。
怒りと哀しみ、そして憎しみがない交ぜになって頭をかき乱す。鼻をつく臭い、誰かの叫ぶ声、彼の流す涙。その全てが僕の感情を揺さぶり、正しい判断を不可能にしていく。
彼を救うにはどうしたらいい? 動かない頭で必死に考える。考えて、考えて、考えて――。
「逃げよう」
考えた結果、僕はただその言葉だけを口走っていた。
「えっ……?」
「逃げるんだよ。戦争のない、平和な世界へ。そこで幸せに暮らすんだ、僕たちは」
もはや自分でも何を言っているのかが分からなくなった。だが、その思いに嘘はなかった。きっとユーフォリア帝国の側にいては戦火を逃れることはできないだろう。だから、遠くへ逃げなくては。
「……僕の手を取ってくれ。お願い」
お願いというよりは、ある種の脅迫。けれど、彼を救うためには、今の僕にはその方法しか思いつかなかったのだった。
僕の最大限真剣な双眸が彼を見据える。それからどれくらいそうしていただろうか。朦朧としていた彼の瞳もやがて一点に定まり、その表面に僕の姿が映った。
「……俺は……お前のことを信じるよ」
「……!」
彼の華奢な指が僕の手に触れる。僕の思いが通じた瞬間だった。
「父ちゃんも母ちゃんももいなくなったから、今頼れるのはお前だけなんだ。だから……」
「うん。……僕が君を守る。絶対に後悔させない」
外で未だ騒音が鳴り止まぬ中、彼の家から少しのパンと着替えを持ってカバンに入るだけ詰め込む。きっと長旅になるだろうから、用意はするに越したことはない。
「準備できたか?」
「今終わったところ。それじゃあ……行こうか」
家を出る。村の門を出る。ただひたすらに歩き続ける。これからどこへ行こうか。当てはないけれど、海の方へ向かえば戦火を逃れられるかもしれない。そうと決まれば、僕らの足取りは一直線だった。
「なあ」
「何?」
「…………ありがとう」
「うん」
涼しげな風が頬を撫でていく。そんな風に少し名残惜しさを感じながら、僕は再び前を向いた。
さあ行こう。ピリオドのない旅へ。