N∅∅sphere
Composer : Axel⇒Show.T
「音」とは何か。様々な形態があるものの、概して「物体がなんらかの作用により動き、またぶつかり、こすれることで生じる振動が空気に伝わり、さらに空気の振動が聴覚器官に届き知覚することができる情報」とでもいうべきだろうか。
その「音」にも様々な種類がある。規則性、音圧、音色、音の高低。それらが複雑に絡み合うことで、快い音なのかそうでないのかが分かれる。前者を楽音、後者を騒音などと呼んで区別することもあるようだ。
一方で、私たちにはすべての音を聞き取ることはできないらしい。これは我々人類の体構造に起因しているので、しかるべき機械を用いて視覚的に音を認知することはできても、物理的にそれを知覚することは不可能なのである。人類の可聴域20H~20kHzの間で、楽音と騒音は入り乱れてこの世に存在している。
突然だが、私は「美しい音」を愛している。それは私がクラシック音楽が好きという話でもなければ、音色の良いシンセサイザーを好んでいるという話でもない。そのすべてを愛しているということだ。それらの「美しさ」の概念を集め、人々の普遍的思想に介入することで、誰もが「美しい音」のもと平等に生を謳歌する世界を作り上げたい。
それが、私──アレクサンダー・S・トゥーリッヒが古今関わらず東奔西走している理由だ。
「──なあ、アレク。その話は、昨日お前んちで見た『ビッグポリス2』みたく尻に根っこが生えるくらい長いのか? アラサーなおじさんには高カロリーすぎて胃もたれしちまうよ...」
「...なんですかショーテイさん。あなたが『アレク、なんでお前はわざわざ美しい音に拘るんだ?』なんて訊くからわざわざこんな話をしてるんですよ」
「いやまあ、うん。そうなんだけどさぁ...モノには限度ってもんがあるじゃん?」
仕事の合間の昼食にやってきているダイナーのソファー席で、げんなりする相席者をみながらコーヒーを啜る。食傷気味な顔をしてしおしおになっている目の前の男の名は、アクセル・S・ショーテイ。私の仕事上の先輩であり、同時に私に生き抜く術である刀の振り方を教えてくれた師匠でもある。ショーテイは、私がこのアンティークなダイナーでチーズバーガーを食べることを多忙な人生の合間の楽しみとしていることをどこかからかぎつけ、こうして同行してくるようになった。
「ああ、ポテトがおいしい...。アレクの長話よりコンソメポテトだよ、おじさんにはサ...」
彼はあんなことを言っているが、だいたいいつも半分ほど食べてから「おじさんだからもうおなか一杯。あとはアレクが食べなよ。おじさんの奢りだぞ!」などといいこちらに押し付けてくる。そんなに胃腸にクるなら別のランチメニューにすればいいものを、どういうわけだか私と同じものを頼もうとするのだ。
「うーん。おじさん、フライドポテトはもういいかな...アレク、全部食べていいよ?」
そら見たことか。横を通る顔なじみのウェイトレスも、またかといわんばかりの苦笑をしながら他の客の料理を運んでゆく。すっかりしぼんだショーテイは、皿に添えられたパセリをかじりながら「パセリ、おいしいなあ」と老爺のような独り言を発している始末だ。
そうして毎度のごとく自分へのご褒美の時間を邪魔されながら、私の昼休みは終わる。料理の支払いは私の職場に請求されるため、私がここで財布やら何やらを準備をして会計に臨むということはない。私の職場は、少し特殊なのである。
「ほら、行きますよショーテイさん。午後も仕事、あるんですから」
「ほいほい」
通りがかったツインテールのウェイトレスに感謝と別れを告げ、最近買ったばかりの黒い上着を羽織ってから店を出る。夏の間は白い上着を着ているのだが、冬にそれを屋内で着ていたところ、別の同僚から寒々しいと苦情を言われてしまい、冬物の上着を新調することになった。
冬を前にした帝都エリムデルブルクは寒さも増し、日差しも雲が遮ることが多いため昼でも薄暗い。せっかく暖まった体の、貴重な温度を少しずつ奪われながら職場への道を急ぐことにした。
◆ ◆ ◆
無形蒐集院。その名前だけを聞いて、そこが何をするところなのか想像できる人はそういないだろうと思う。無形文化財とか、無形商材とか。無形のつく単語でいえばそのあたりだろうか。無形とは、形がないもの、物理的なものとして現れないことにつく言葉であり、ここでいう無形は、無形文化財のような「各時代における人々の思想、感情といった資産」、無形資産のことを指している。無形蒐集院は、そういった無形資産をアーカイブ化し保存・管理する研究施設である。一昔前には、動植物の絶滅を危惧したユースデイア国が、「種の保存協会」なる組織を設立し、絶滅に瀕した動植物の遺伝子を保管・記録することを始めたこともあった。それと比べ、無形資産は流行り廃りによって永遠に保存できなくなることも多い。それをすべて蒐集することが、私たち無形蒐集士の役割だ。
そんな職場につく頃には、私たちの体はすっかり冷え切っていた。隣を歩いていたショーテイは職場へと戻る道中でも、
「いやあ、イイだろこのおニューのアウター。これ着てるとな、ぜんっぜん寒くないんだよ。いくらしたと思う?」
とか、
「お! あそこのお姉ちゃんかわいいな! なあアレク、ナンパしてこいよ! え、あなたが行けばいいじゃないか? 嫌だよう、だっておじさんだもん」
など、本当に身のない会話を繰り広げていた。これも毎回のことなので、だいたい適当にあしらってはいるのだが。
無形蒐集院は帝都の中心から少し北に外れた場所にひっそりと佇んでいる。一般の行政機関や博物館のような利用客がほとんどいないため、特に目立つ必要もきれいな外観をしている必要性もない。純粋に研究するための施設だからということで、院の設立時に当時の院長がそう要望していたそうだ。遠目に見ればただの雑居ビルでしかないそこへ足を踏み入れ、外部の人間が立ち入らぬよう設置されているセキュリティシステムに手をかざす。アナログなICチップによるセキュリティは、進化したハッキング方法の前には無いも同然ということで、近年の帝国ではDNAをスキャンする認証方法がとられている。
ピピッという小気味いい音とともに認証を終え施設に入ると、見慣れた通路が私たちを出迎える。1年間のうちで600に近い回数はこの光景を拝んでいる。出勤回数はその数字を2で割ればいいだけだ。それだけの回数出勤しているのは、もちろんこの仕事が慢性的に人手不足だからだ。職員の数もごくわずかに増減を繰り返しているのみで、予算もなかなかつけてもらえない。そういうわけで、自然と職員の出勤回数が増え、仕事も増え、愚痴も増えるということになる。
「あー寒かった...」
「さっき、そのアウター着てると全然寒くないって言ってたじゃないですか」
「いや寒いもんは寒いの!」
すれ違う事務員たちが、そのやりとりに笑いをこらえているのを見かける。個人的にはちっとも嬉しくないのだが、私がショーテイに絡まれるこの一連の流れを楽しみにしている職員が少なからず存在するという事実を聞かされたことがある。どうにも嬉しくはならないが、この一幕を苦々しく思われるのも面倒なので、それよりかは幾分もマシだと思って放置している。
研究室にたどり着くと、昼食もとらずに研究に没頭する数人の同僚の姿がそこにはあった。相変わらずブラックな職場だ、と呆れていると、
「うーす、戻ったぞ! アレク、そんなところに突っ立ってないでどいてくれ」
と、後ろからショーテイに肩を押される。昼食時にショーテイに語った通り、私は音にある種の魅力を見出している。それを理由に無形蒐集士として古今東西の「音」をかき集め、保管している。そんな私と同じように、彼もまた「音」を蒐集することを仕事としているので、同じ部署に配属されているのである。
ただ、私とショーテイの決定的に違う点といえば、私が「美しい音」に拘ることに対して、彼は「ひたすらデカい音圧」に限って蒐集をしていることだろう。彼の考え方は到底理解できないし、それは彼からしても同じことだろう。美しい音といっても、それは音単体に留まらずにそれらを孕む全体を指してそう呼んでいる。とりわけ一番扱いやすい形態として、私は様々な時代の楽曲を蒐集することにしている。ただ、楽曲というのも一口に言えば簡単だが、「コンサートホールで演奏されるオーケストラ音楽」から「主婦の鼻歌」まで楽曲と呼ぶことができる。そしてそれらをすべて精査・蒐集することには膨大な時間がかかる。私が一年のほぼすべてを研究と蒐集に費やしているのは、だいたいそれが原因だったりする。
それに対してショーテイは、楽曲に関わらず純粋な音圧を求めており、こちらのほうが幾分か的を絞りやすい分順調に作業も進むようで、毎日定時で仕事を終えることができているようだ。午後の作業に対しても、
「さ~て、ちゃちゃっと作業するか!」
と、鼻歌交じりに自らのブースへ向かっている。やめろ。その鼻歌も私の蒐集対象になるんだぞ。
◆ ◆ ◆
研究に没頭するうちに定時をとっくに過ぎており、気づけば私は研究室に一人となっていた。自分のブースを離れ、研究室に併設された集中室に篭っていたので、退勤する他の職員に気がつかなかった。自分のブースに戻ってみると、机に何やらメモが残されている。
『アレク席にいねえし先に帰るからな! ショーテイより』
…あのおじさん、一度しばいたほうがいいのかもしれないな。きちんとお灸を据えてやることが、きっと彼自体にもいい結果をもたらすだろう。うん、それがいい。受け取ったメモを軽く握りつぶしてから捨てる。これはあまり他人に見られたくないし、残しておくメリットもない。メモ以外には特に変わった点のない自分の机を片付けてから、退勤するために研究室を出る。
「きゃっ」
出ようとしたところで、通りがかった人影と接触しそうになる。すんでのところでぶつからずに済んだが、相手の方はどうやらバランスを崩したらしくこちらに倒れてきた。それを危なげなく受け止めてやると、その人影がよく顔を合わせる事務員の一人だとわかった。
「あ、アレクさん! すみません、私ったらどうにもせっかちで…」
「いえ、そちらこそ大丈夫でしたか?」
「ええ、アレクさんが受け止めてくれたのでケガもないです!」
彼女──コニファは姿勢をただしてからこちらを見てはにかむ。私がこれから帰宅しようとしていたことに気付いたようで、
「今までお仕事でしたか?」
「ああ、そうなんですよ。同僚の帰宅にも気づかない鈍感な社畜です」
「それはそれはお疲れ様です...あ! ちょっと待ってくださいねぇ」
と、こちらを労いつつ、懐から小さな包み紙を取り出した。おそらく個包装されたお菓子の部類だろう、コニファはこれまでも私の社畜ぶりを憐んで、こういった糖分補給用のお菓子をくれることが多かった。これもきっとそういうことなのだろう。
「はい、どうぞ! いつもお疲れ様です!」
「こちらこそいつもありがとう。これは...キャンディですね」
「そう、桃味なんですよ。アレクさんは何味が好きなんですか?」
好きな飴の味。私にとってはこれまで特に考えたことのない問いだった。いや、これはきっとそこまで難しく考えるような物でもなくて、ただの世間話なのだから適当に思いついた回答を示せばよいのだろう。普段の私はほとんど飴を食べることはないが、記憶をざっと遡ってみると、
「そうですね...リンゴ味、ですかね」
「リンゴ! リンゴ味もいいですよね~。今度はリンゴ味も買ってみようかな!」
「もし買ったら、私にも一つ分けてくださいね」
ちょっとした冗談を言って、それから彼女と別れた。こちらを労った彼女こそなぜこの時間まで院内に残っているのか、彼女のほうこそ仕事熱心で忙しいだろうに、私に気を使ってくれるのはきっと彼女の優しさなのだろう。
そのことを考えていると、先刻コニファに問われた飴の味に対して、なぜ私はリンゴ味と返答したのか、という問いも発生してくる。それは一体いつの記憶なのだろうか。それを思い出そうとすると、赤色という概念が思考を支配しそれ以上の詮索を妨害してくることに気付いた。赤色。リンゴの色。紅。どうもそれ以上のことが何も思い出せない。
貰った飴の封を切り、その包み紙をまるでまとまらない思考を払拭するかのように近くのゴミ箱へ捨てた。
「甘いな...いや、ちょうどいいか」
◆ ◆ ◆
アレクサンダーとコニファの、今しがたの一部始終をこっそり覗いていた者たちがいた。
「うーん。アレクさんなんで気づかないかなあ」
「いやー、気づかれたら困るよ。私、今月は『まだ気づかない』に賭けてるからね。負けたらお高いパンケーキ奢りなんだもの」
「そりゃあまあアンタはそのほうが嬉しいだろうけどさぁ。せっかくガッと受け止めたんだからもっとこうガバッと行けばいいんだよ! そしてもっと──!」
「いや、職場でそんなラブロマンス始められても困るでしょうに...」
「あー、うん。まあ、そうかも...」
「いきなり冷静にならないでよ」
「でもさあ、女子があそこまでニッコリ笑いかけてさ! そんで『今度はリンゴ味も買ってみようかな!』なんてさ! アンタが好きっていってるようなもんじゃん!」
「それは同じ女子の私からみても早計だと思うけどねえ。いやーしかし、」
「「なんで気づかないかなあ、アレクさん...」」
◆ ◆ ◆
職場を出た途端に、変な寒気が走った。確かに今夜は冷え込むといわれていたが、寒さもそんなに急に来るものでもなかろう。誰かが良からぬ噂でもしているのだろう、と結論付けて帰路を急ぐことにした。
昼食に立ち寄ったダイナーとは別の方向へと歩き出す。私が現在住んでいるアパルトメントは、徒歩で出勤できるギリギリの範囲内にある。交通費を申請し、電導トラムによる通勤をすることも検討したが、道中に得られる様々な音を聞きながら通勤することを、単なる「美しい音が好きなだけ」の私は選んだのである。職業としてではなく、単なる「無形蒐集家」として。結果的にそれが職業上の結果につながったこともあり、こうして現在までそのスタイルを継続している。
通勤途中には活気ある声や通りがかる広場での管楽器のゲリラ演奏が、退勤途中には静けさの中に佇む環境音がそれぞれ息づいている。しかし、今夜のそれには昨日までのそれには無かった異質な音が紛れていることに気づく。
「...なんの用だ。お前はもう私の同僚ではないし、我々に近づくことさえも禁止されているだろう──」
振り返ると、一人の女性がこちらに相対していた。美しく長く、そして一部に紫のメッシュが入った黒髪、女性としては比較的高めな身長、眼帯をはめている右目。彼女はかつて、私の同僚だった。
「ヴァネッサ」
「あら、うれしいわあアレク。いつから気配だけでワタシに気づけるようになったのかしらあ!」
「お前の音は耳をふさいでいてもすぐにわかる。不協和音だからな」
彼女の名は、ヴァネッサ・D・エクセルム。無形蒐集院にいたころは成績優秀な研究員で、「固有名詞」を蒐集していることが多かった。彼女は入所時からずば抜けた成績で研究を進め成果を挙げたが、ある理由で無形蒐集院を追われることとなった。そしてそれは、おそらく彼女が今目の前にいることと関係している。
「ねえ、アレク。そろそろあの研究も大詰めに入っている、とワタシは風の噂で聞いたのだけれど」
「...お前には関係のない話だ。さっきもそういったはずだが」
「ツれないのねえ。あの忌々しい院長も人手不足なのはきっとわかっているだろうし、アレクに無理をさせようとしているのでしょう? アレを渡してくれたら、あなたも楽になるし、ワタシも嬉しいし、それってWin-Winっていうんじゃないかしらあ?」
大仰に悲しむふりをしながら、ヴァネッサは今日の邂逅の目的をさらけ出す。アレを渡せ。彼女はそう私に告げる。そういいながら、薄紫がかった唇が妖しく照らされる。
「アレはお前なんぞに渡せるものではない。無形蒐集院の、いや帝国の悲願に関わることだ。これ以上お前に話すことはない」
「そう、ならこちらも手段は選んでいられないわあ」
「どうあろうと渡すことはない、去れ」
そう言い放ち、帰路へと戻るために彼女から顔を背けた。夜遅くの街中でひと悶着あろうものならたちまちのうちに憲兵がやってくるし、とある事情から彼女も憲兵と顔を合わせるのを良しとはしないだろう。今日のところはこれでお終いだろう、そう高をくくっていた私の背に向けて言葉が刺さる。
「それじゃあ今日はこの辺にしておくわねえ。また会いましょうアレク、”ノウアスフィア”の名のもとに──」
「ッ!!」
ほんの一瞬。ヴァネッサが発したセリフに反射的に振り返ると、彼女の姿はもうどこにもなかった。
◆ ◆ ◆
”ノウアスフィア”の名のもとに。それは、帝国の研究機関の一つである無形蒐集院の、さらにその中のごく少数の人物にしか伝えられていないキーワードである。我々無形蒐集士の役目とは、「無形資産をアーカイブ化し保存・管理すること」だ。それは先刻も再確認したばかりである。ただ、それがすべてというわけではない。
私たちの真の目的とは、「過去から現在までの人類の思考を、精神圏にて時を超えて画一化させる実験」とでもいえばよいのだろうか。我々が生きる世界は三次元的世界であり、それは一次元(=ある一本の線)、二次元(=線同士が交差し完成する面)、ではなく三次元(=そこに別のベクトルの線が加わることで完成する立体的な空間)からなる世界だ。簡単にいえば、私たちが観測可能な世界というのは立体的な空間のみで構成されているともいえる。そしてその立体空間は時間という制約の上に成り立っており、その時間という概念は三次元世界に立つ我々には進行することはできても遡行することはできない。ビデオを巻き戻したり早送りしたり、そういう感覚で時を行ったり来たりすることは不可能であるということだ。
その軛から逃れ、時間の制約を受けることなく人々の思考を画一化させること。つまり、立体的かつ肉体的な環境である生物圏から時空間的かつ意識的な環境の精神圏へ世界を昇華させることにより、画一化した意識の集合体として世界を創造すること。それによる全時間・全人類的なユーフォリア帝国への融合。それこそが無形蒐集院の、帝国の願望である。その一連の計画を、「ノウアスフィア計画」と呼んでいる。
その壮大な野望を叶えるため、私たちはこうして体と精神をすり減らし日々奮闘している。限定的ではあるが、時空間を歪曲させる技術を持つ無形蒐集院がその野望の担当としてあてがわれ、そのなかの適正あるものがこの極秘任務を請け負っている。任務の中では、時には不特定多数の敵と対峙することも多く、研究者としての適性と戦闘員としての適性の両方を求められることが多かった。私がショーテイに剣術を教わったのも、それが理由の一つだ。
私もショーテイもその任務を負っているが、その昔はあのヴァネッサも同じ任務に就いていた。成績の良かった彼女が無形蒐集院を追われるようになった理由は、「固有のものとして確立している名称」を収集し研究していたが、その無形資産についての解析と研究を進めるうち、『エゴ・シンギュラリティ』の概念を確立させてしまったことにある。
我々が無形資産を蒐集し、保管することが表向きの業務であるとするならば、裏の業務としては蒐集した無形資産から、その本質的な情報──我々はそれをイデアと呼んでいるが──を取り出し、解析すること。そしてそこから得ることができる情報核──アニマを集合させることで、生物圏全体としてのアニマを誘導することが可能になりと考えられている。最終的にはアニマを操作し全体を昇華させることにより、帝国の願望に沿うような世界を作り上げることができる、と上層部は確信しているようである。
彼女はそのアニマの操作を生物圏全体ではなく特定の個人に集中させることにより、強力な単一のアニマとして振る舞うことができることを発見した。正確にはそれをまだ試行してはいないため、そのように理論づけたというのがせいぜいではあるが。その理論の中での「生物圏上の人類としての精神圏に対する臨界点」を『エゴ・シンギュラリティ(利己的進化特異点)』と呼ぶことにしている。
要約するならば、彼女は帝国のために我々がせっせと集めているものを使い、自分だけ時間を無視できる存在になることができる技術を生み出した、ということになる。
まとめると、
我々無形蒐集院には本来の業務以外に特命任務がある。それは様々な無形資産から得られる本質情報によって、帝国を中心とする世界を作り上げることである。
また、私とショーテイ、そして現在はクビになったがヴァネッサもその任務を請け負っている。
そして、彼女は研究の末、無形資産から得られる本質情報をもとにして己を「時間を無視できる存在」へと昇華させる技術を手に入れ、そのことが原因で無形蒐集院をクビになった。
ということになる。
ヴァネッサが先ほど私に渡せと願ったものこそ、そのアニマの集合体である。私がかねてより蒐集してきたアニマの量は、無形蒐集院がノウアスフィア計画に必要と定めている量に限りなく近づいている。まだ十分ではないが、生物圏上の時間にして一カ月にも満たないうちに十分な量となるであろうほどには集まっていた。
それを、あの忌々しい毒蛇のような女は何処かから嗅ぎつけたのだろう。院を追われた彼女は、彼女自身がエゴ・シンギュラリティを突破するための組織を作り上げ、日々暗躍している。その帝国に巣食う秘密結社、「冠る大蛇」の構成員は末端まで数え上げれば数百人に上る。彼女はこれまでに何度も我々の前へ姿を表して争っているものの、今のところは深手を負う前に逃走されることがほとんどという状態である。
◆ ◆ ◆
彼女とそれを取り巻く状況について思い起こしているうちに、ほとんど寝に帰っているだけのようなアパルトメントが見えてきた。築10年程度のまだ新しさの面影だけを残しているそのアパルトメントは、帝都北部の居住区のはずれに建っている。以前、大家と話す機会があり、どうしてこんな場所に建てたのかと質問したことがあるが、そのときには「ここしか土地がなかったんだよ! 余計なお世話だこの野郎!」と激怒されたこともあった。しかし、こんなはずれのほうでは、わざわざ居住を試みるものも少ないだろう。もっと都市部や行政区に近いところの居住区に建てられているアパルトメントやマンションを選ぶのが合理的だ。現に、私の部屋の両隣は空室となっており、棟全体でみても居住率は6割程度だろう。(そのおかげで隣人トラブルというものとは無縁なのだが)
アパルトメントのエントランスホールへと入っていくと、大家のクルーガーが何やら張り紙をしていた。箒を小脇に抱えており、こんな夜遅くでも仕事熱心だなと私が感心していると、
「おお、チューリッヒさん。今帰ったのかい? 仕事熱心だねえ」
「トゥーリッヒです、こんばんはクルーガーさん。そちらこそ夜遅くまでお疲れ様です」
「いやあ、最近何かと物騒だろう。憲兵のほうからも不審者情報のお触れが良く届くもんで、みなさんが通るエントランスに掲示しておかないと、ってなあ」
「不審者、ですか」
「ああ、なんでもここ最近この近辺で夜中に徘徊する二人組の男を見かける人が後を絶たないとかでなあ」
「二人組…」
なんでわざわざこんなところで、とうんざりして話すクルーガー。ただ、その二人組には少し心当たりがある。クルーガーにいうほどのものでもないだろうが、こちらも少し警戒をしないといけないようだ。帰宅途中で購入した食料の入った紙袋を抱える手に自然と力が入る。かすかにクシャと鳴ったことに気が付いたクルーガーが怪訝な顔をした。
「どうかしたのかい?」
「...いえ。これからは夜道にも気を配らないとですね」
「ああ、ぜひそうしてくれ。それじゃあおやすみなさい、チューリッヒさん」
「トゥーリッヒです、クルーガーさん」
帰宅してすぐ、寝室兼書斎へと向かう。このアパルトメントの個室は電子ロックになっており、無形蒐集院のエントランスと同じようにDNA認証で開くことができるため、何者かが侵入しようとするには物理的にロックを破壊するかハッキングして解錠するかのいずれかしかない。帰宅した際には通常通り作動していたので、不埒な空き巣が忍び込んだ形跡というのは見当たらなかった。
ただ、私はここ最近集めていたアニマを保管する場所として、書斎にある物理的な記録媒体を選んでおり、そのことが気がかりだった。先ほどの会話中の不審な二人組。あれはおそらくヴァネッサが子飼いにしている組織の幹部、エンリコとジルウェのコンビだ。これまでは白昼堂々「データをよこせ」と向かってくる度にコテンパンにして組織へ送り返してきたが、とうとう手段を選ばなくなってきたのか、私の居住空間を漁るつもりらしい。ここにあるアニマは、私が集めたすべてというわけではない。デあくまでも、データを一か所にまとめておくのは好ましくないと判断して分散させたうちの一つである。ただ、分散させているとはいえそれなりに量が多い。
書斎の机に隠すように設置されている記録デバイスを確認してみるが、特に変わった点は見られず、インジケータ―などにも不審な点は見られない。クルーガーは張り紙等で警戒してくれていたようだが、そのことについては少し申し訳なく感じた。無論自分のせいだと己を責めるようなことはないが、あくまでもこのことについては彼は部外者であり、被害者でもあるだろう。
遅めの夕食をとり、就寝するころには日付を跨ごうかという時間になっていた。布団にもぐりこむと、これまでのことと今日の出来事を思い返してゆく。
ヴァネッサが私のデータをあの二人組に狙わせているのは、もうかれこれ一年近く前からになる。組織の長となってからしばらくは鳴りを潜めていたが、そのタイミングになりようやく人類を超越するための準備が整ったのだろう。彼女が私の前に姿を現したのは、実に一年ぶりのことだ。二人組が現れるようになったころにも同じように私の前に現れ、あのような会話のやりとりを行った。もちろんその時の私も断っており、そしてそのときに引き連れていたエンリコとジルウェも軽くあしらってやった。
しかし、ここのところはおとなしくしているように見えたが、誰かに伝えてもいない私の自宅を探し当てるとは、いよいよ彼らも焦っているのかもしれない。なりふり構わなくなり、このアパルトメントに電導重機などで突っ込んでこなければいいのだが。そこまでされては生身の人間である私も無事では済まない。そろそろデータの保管方法について、見直さなければならないだろう。データの量も十分そろってきているし、そろそろ他のアニマと同じ場所で保管をするべきだろうか。
そんなことを考えているうちに、心地よい微睡が訪れる。それに抵抗することもなく、明日の仕事に向けて就寝することにした。
◆ ◆ ◆
数日後の昼時間。
またしてもお気に入りのダイナーまでついてきたショーテイが、届いたばかりのハンバーガーを頬張りながら他愛もない話をしている。このダイナーのハンバーガーは、オーガニックな素材を使用していて、それでいてきちんと帝国の持続可能な開発に貢献するために云々、先日はアウターの話をしたが、今日は気に入ってるブランドの新しい靴が云々。時々本当に年上なのか疑わしくなるくらいの奔放さである。
しかし、いつもとは違うのは、そんな私とショーテイのやりとりを聞くものが他にもいることだろうか。
「アレク、お前は俺の話をスルーしすぎなんだよう。せっかく俺が素晴らしい話をしてるんだから、ちょっとぐらい聞いてくれたっていいだろ? なあ、ディーノ」
「あはは、ショーテイさんけっこう話が蛇行するんで、それで彼もこんななのかもしれないですねェ」
「え!? 俺のせいなの!?」
ショーテイの横に座り、軽く笑いながら彼に毒を吐いているのは、別の部署の先輩にあたる男。名は、ディーノ・F・ノイマン。軽くパーマのかかった髪に眼鏡と無精ひげ、草臥れたシャツを着たその姿は、いかにも研究者然としている。私やショーテイとは違い、ノイマンは「政治的思想」を中心にイデアを集めている。彼もまた特殊な無形蒐集士として勤務しているが、私はこのひょろ長く痩せた男が誰かと戦闘をしている姿を見たことがなかった。有事の際には、どのように危機を回避しているのだろうか。
ノイマンにぐさっと刺され、またしても時間がたったフライドポテトのようにしなしなになりながらドリンクを飲むショーテイが、そういえば、と切り出す。
「今朝なんだけどよ、院の近くであの例の二人組を見かけたぞ。ええとなんていう名前だったかな、確かエリンギとカヌレみたいな名前の──」
「...エンリコとジルウェ、ですか?」
「そうそう! そいつらだ!」
「アレク、それって例のエクセルム嬢の子飼いのやつらかい?」
「ええ、そうです。ノイマンさん、あの女のことをまだそんな呼び方で呼んでいるんですか?」
「あの女っていう呼び方は感心できないなァ。いくら彼女が国家に盾突く秘密結社の長だったとして、そういう女性に敬意を払ってはいけないなんてことはないだろう」
この新聞記者のような風体をした男は、その見た目よりもずっとフェミニストであり、女性への気配りをどこまでも欠かさないというこだわりがあった。無形蒐集院の事務員には我々の仕事の裏の事情を知らないものが多く、そしてそういった事務員たちはたいていノイマンのことを「優男」「男にももっと優しくしろ」「けっこう好み」「タバコ吸ってるのはちょっと…」などと好き放題言っているらしい。無論、こちら側に立っている事務員は彼が草臥れているのも私と同じような長時間勤務によるものだと知っているので、得も言われぬ憐憫の表情を浮かべながらすれ違うものも多かった。
ノイマンはすでに自身の昼食を終え、心地よさそうに紫煙を燻らせている。喫煙が全席で可能というすこし時代にそぐわぬこの店では、嫌煙家たちからオアシスへと逃げこむように集う人々が一定数存在する。今や帝都では条例により喫煙ができる場所は制限されており、愛煙家の肩身はどんどん狭くなっていている。私もどちらかといえば肩身の狭い方に所属する人間であるが、彼らとは違い吸いたくてしょうがない衝動などはあまり持ち合わせてはおらず、もっぱら仕事の休憩に屋上へ繰り出すときや帰宅後などでしか吸うことがない。昼食の時間も普段はあまり吸うことはないのだが、なぜだか今日この時には少しそういう気分になった。
「ノイマンさん、すみませんが火を貸してください」
「あれ、アレクってタバコ吸うんだっけ?」
「普段日中はあまり吸いませんが、今日はたまたまです」
「ああ、そうなのか。...じゃあこれを使って」
そういって、ノイマンはオイルライターを寄越してくる。最近主流の電熱式のライターではなく、少しアンティークなフリント式のものだ。ケースなどもきちんと手入れされており、くすんだ金属が手になじむ。側面には幾何学模様が彫られているが、何かのブランドロゴのようなものなのだろうか。自らの胸ポケットからタバコを取り出して咥える。好きな銘柄などはないが、最近は中毒成分のないタバコも発売されており、私はそちらを好んで吸うことにしている。他の愛煙家からは、「ニコチンのないタバコはタバコにあらず」などと揶揄されることもあるが、個人的には中毒にならない程度で楽しむことができ、またそれが嗜好品としての適切な距離感なのだと考えている。
火をつけ軽く吸うと、肺に煙が充填されていく感覚を覚える。最初の一吸い目の、この感覚を求めているのかもしれない。他では代用が利かず、こうして一本また一本と吸う羽目になっているのだろう。それを否定しない自分にも、もうずいぶんと慣れてしまった。
「ありがとうございます。お返しします」
「随分、うまそうに吸うねェ」
「うまい...のかはわかりませんが。それに近い気持ちになるのは確かかもしれませんね」
「そうか、ならいいんだ。...そういやアレクと違ってショーテイさんは吸わないんですね。ショーテイさんこそ吸いそうなのに」
「うるせえ。俺も昔タバコ吸ってんのかっけえなって、試したことはあったけどよ」
ショーテイはそういうと、飲み切ったドリンクのストローをコップからはずし、タバコを吸うふりをしてみる。すぅ、とその先端から空気を切る音が鳴る。
「むせて、そのまま捨てちまって。それからは試そうとも思ってないんだよな」
そう言ってストローを放るショーテイの顔は、少し寂しそうだった。
◆ ◆ ◆
昼食中はなんとなく流してしまったが、例の二人組が無形蒐集院の近くにも出没していることが気がかりとなっているうちに、終業時間をとっくに過ぎてしまっていた。今日もまた集中室にこもっているうちに退勤するタイミングを見失ってしまった私が、相変わらずまとまらない資料とともに自席に戻ってみると、
「よう、えらく遅い時間まで頑張ってんだな! えらいえらい」
「ショーテイさん、こんな時間まで残っているのなんて珍しいじゃないですか。どうしたんですか?」
自席にもたれかかり、通信端末を眺めていたショーテイと目が合った。彼がもたれかかっている私の席には、何かの紙袋が置かれている。やや膨らんでいるところを見ると、何かの食糧のようだ。姿勢を正すと、ショーテイがこちらに向き直る。
「ちょっと話があってな。屋上まで、いいか?」
「ええ、わかりました」
退勤する準備だけ終えると、紙袋を抱えるショーテイと屋上へ向かう。私の勤務するフロアは二階であり、屋上はその二つ上のフロアである。そこへ階段を使って向かう途中、上から降りてくるコニファとすれ違った。
「あれ、今から資料室ですかアレクさん?」
「いや、ちょっとこの先輩と話がありまして、屋上のスペースまで行くところです」
「おっ、コニファちゃんこんばんは! おじさんアレクに話があるから借りてくぜい! コニファちゃんも残業なのか?」
「あっ、ショーテイさん...こんばんは、です」
後ろをついてきていたショーテイもコニファに気付いて話しかけるが、なにぶんこのおじさんはあまり遠慮というものを知らず、日ごろからの振る舞いへの評判もあるがゆえに、彼女の反応も芳しくない。お灸を据えてやるいい機会だろう。そういった機会をくれる彼女に感謝してほしいくらいだ。
「ほら、ショーテイさんの日ごろの行いが悪いから彼女も困ってますよ」
「え、え、そんなことないよきっと! ねえ、コニファちゃん?」
「あ、あはは...」
ええーという顔で固まっているショーテイの背中側に回り込むと、その背中を押し上げながら階段を上っていく。ここで固まられても私の帰りが遅くなるのみである。
「まあ、このおじさんのことは気にしなくていいですからね。それでは、また」
「あ、ハイ! お疲れ様ですっ!」
コニファと別れ、さらに屋上への階段を上る。自力で歩くようになったショーテイが、
「ホント、なんで気づかないのかねえ...」
などと言っていたが、私には何のことなのかわからなかった。
◆ ◆ ◆
無形蒐集院の屋上には、簡易的な喫煙スペースがある。といっても、自立する吸い殻入れが置かれているのみであり、なにかソファーのようなものが置かれているわけでもない。その吸い殻入れのある屋上のフェンス付近を陣取ると、ショーテイは持っていた紙袋の口を開け、中から何かを取り出した。
「ほれ、おじさんのオゴリ」
「肉まん、ですか」
彼が買ってきたのは、職場近くにある東方出身のファストフードチェーン「ドラゴンダイニング」の肉まんのようだ。最近できたばかりだが、東方の食文化はこの帝国でも人気があり、女子を中心に行列を形成している。私も一度ラーメンを頼んでみたことがあるが、寒い夜などにはうってつけの料理だったことを記憶している。そろそろまたラーメンを食べに行くのもいいかもしれない。
自ら買ってきた肉まんを頬張りながら、ショーテイは早速本題を切り出した。
「昼間の話。覚えてっか?」
「ヴァネッサの子飼いの部下の話でしょう? それがどうかしたんですか」
「どうもこうもねえよ、またどうせお前のアニマを狙ってきてるんだろ?」
「ええ、まあ。恐らくそうだと思います。どうもここ最近、自宅付近にも出没しているみたいなので」
「そんなところまで...いや、とりあえずそれはいいんだ」
予想外の報告に、頭を掻きむしるショーテイ。すっかり肉まんを食べ終えた私は、胃に物を入れた反動でこみ上げる口寂しさを紛らわそうと、タバコに火をつける。
「俺がタバコの話をしてるとき、最後になんて言ったか覚えてるかって話だ」
「ええと、なんでしたっけ。『むせて、そのまま捨てしまって。それからは試そうとも思ってない』みたいな話をしてませんでしたか」
「そう。俺本当にタバコ吸えなくてさ、女の子にモテるかなあってその時は本気でそう思ってたんだぜ?」
先刻までの真面目そうな表情は一体どこへ行ったのだろう。私の貴重な時間を返してほしいものだ。溜息とともに私から吐き出された煙が月まで昇ってゆく様を見ながら、彼の話を世間話の類と決め込んで話半分で聞こうとして、
「──それと、ディーノには気を付けておくんだな」
「...え?」
「さあ、寒くなってきたし、帰るか。じゃあな」
会話の流れを切るかのように謎の忠告を残し、紙袋をグシャッと丸めたショーテイが屋上の出口へと歩み去る。その途中で、彼は出口のほうを向いたまま明後日の方向へそのゴミを投げた。一見するとポイ捨てのようなそれは、屋上に設置されているゴミ箱へ吸い込まれるように入っていった。もう一度彼を見やれば、気だるそうにこちらも見ずに手を振っている。彼が屋上から姿を消すのを見送ると、一連の流れがつかめていない私は仕方なく天を仰ぎ見ることにした。タバコの煙か流れてきた雲か、月はやや翳っていた。
ディーノには気を付けておくんだな。その言葉の真意を確かめることができなかったことを、後になって後悔することになるとは知る由もなかった。
◆ ◆ ◆
自宅にデータを保管しておくことについて、そろそろ見直す時期が来たのかもしれない。帰路につきながら、先ほどのショーテイとのやり取りについてぼんやりと考える。
ここ最近のヴァネッサたちの動き、自宅を嗅ぎまわる彼女の部下、ディーノには気をつけろ。どう気をつけたものかはわからないが、少なくともそれを冗談で言っているわけではないことくらいは理解できる。ディーノの件はともかく、今後データについては無形蒐集院の中で管理したほうが良いかもしれないな。
そう考えながら、アパルトメントに続く道の角を曲がると、
私の部屋から何かを持ち出そうとして、窓から飛び出し逃走しようとする二人組の男と鉢合わせた。
「ゲッ、アレクサンダー!?」
「この時間はまだ仕事してるはずじゃ...!?」
「...とりあえず、部屋から盗み出したものを返してもらおうか」
「返せと言われて返すバカがいるかよッ! 逃げるぞジルウェ!」
「お、おう!」
啖呵を切ると、踵を返して猛烈に走り始める二人組。記録デバイスは一般的なカードサイズなので、今どちらの手中にあるのかはわからない。なれど、逃がす手はない。逃走者を追跡しつつ、無形蒐集院に緊急連絡を入れておく。こうすることで、動ける無形蒐集士のうち近くにいるものにも連絡が入り、スムーズに連携できるようになる。
エンリコもジルウェも、手際が悪く何処か抜けているところのある所謂「ダメコンビ」なのだが、この一年間対峙してわかったことがある。知能は高くなくとも、彼らはずば抜けて運動能力が高いのだ。幾度となく襲撃を受け応戦する中で、単純な力と技術の応酬になると彼らはショーテイから手ほどきを受けている私と互角に渡り合っている。いくら二対一とはいえ、特命を受けている無形蒐集士が一般人と互角ということはあまりない話だ。特命付き無形蒐集士がどのくらい強いのかといえば、現在の帝国軍の兵士では一対一はおろか十対一でもなかなか勝ちを得ることはできないだろうというほど卓越している。さらにその無形蒐集士のなかでも、得手不得手により実力に差は出てくる。ディーノなどほとんど戦闘を得意としないもの(それでも帝国軍兵士に後れを取ることはないだろう)から、ショーテイのようにそれこそ一対百になっても勝つと予想できるほどの腕前のものもいる。彼はあの風体からはおよそ想像もつかないが、無形蒐集院のエースの一人なのである。あれで中身が良ければなおのこと良いのであるが。
そんな私たちと二対一で渡り合える彼らは、一般人の枠をはるかに越えており、そしてそれは戦闘以外の運動能力にも現れてくる。路地裏へ逃げ込んだかと思えば、素早い三角飛びでビルを駆けあがっていく。ビルからビルへ飛び移り、行き先がないかと思えばビルの突起を駆使して猿のように降りてゆく。まるで一世代前に流行ったパルクールというスポーツをとても規模が大きく危険なものに仕立てたようなものに見えることだろう。しかし、私もまた同じように人を越えた運動性能を獲得しており、つかず離れず追跡をしている。
やがて、アパルトメントよりさらに北にある廃工場後に二人が進入したのを確認すると、同じように後ろから追うのではなく、工場の天井を突き破り二人の真上へ躍り出た。天窓のガラス片とともに降下すると、わずかにまごついた二人のど真ん中へと着地する。ここからさらなる逃走を洗濯することは難しいと判断したのか、
「畜生、上から降ってくるやつがあるかよ! エンリコ、しょうがないからこいつを倒してから姐さんのところへ戻ろう!」
「ああ、やるしかなさそうだ」
と、それぞれ胸元に入れていた短めの棒を取り出すと、それを軽く振る。ガードロッド──所謂特殊警棒と呼ばれるような物で、普段は警棒から柄の部分だけ取り出しましたというような形状をしているが、ある一定以上の速度で振ると柄の内部に格納されている打撃部が振り出され、遠心力と摩擦力でロック、強固な打撃武器となる。軽量かつコンパクトに運搬できるため、アナログな武器であるにもかかわらずこういった悪党を中心に支持を受け続けている。
武器を構えるが早いか、二人同時に殴りかかってきた。左右からの一撃をバックステップでかわす。空を切るガードロッドを見送る暇もなく二撃目が飛んでくる。エンリコとジルウェ、二人の息の合ったコンビネーションが織りなす一連の攻撃は、さながら体術の型のように流麗で淀みがない。上下左右、時にはフェイントを織り交ぜながら苛烈に攻め立てるその一撃一撃をかわしきる。時には髪をかすめるほどにぎりぎりでかわす瞬間もあり、ヒュンともブンともつかぬ風切音を立てながら眼前をロッドが通過する。
最後の一撃に対して大きく後ろに跳躍し、一定の距離をとる。その間の逃走を警戒したが、相手もある程度アドレナリンの放出ととともに頭に血が上ってきており、そこまで思考が回らないようだ。
「ちょこまかとッ...!」
「痛みに快感を覚える趣味はない。そろそろデータを返してもらうぞ」
胸ポケットから金属片を取り出し、一瞬握りこむ。握った手を開くと、それは一振りの片刃の剣に変化した。特殊な形状記憶合金でできており、握りこむ動作のような圧力とある一定以上の温度を同時に加えることにより、本来の形状を取り戻す仕組みとなっている。鍔のない一振りの剣となったそれを利き手で持ち、構える。
刹那、弾き出されたかのように走り出し、間合いを離していた二人へと肉薄する。そのスピードにまごいた二人が体勢を立て直し、繰り出す斬撃をロッドで受けきると、何とか剣の有効範囲外へと逃れようと後ろに跳躍した。だが、それを許すはずもなく
「逃がすか!」
すかさず前進し、右下から切り上げる。たまらずガードロッドで受けようとしたジルウェのそれに剣をたたきつけると、その勢いでロッドが手から離れた。
「ぐっ!」
「ジルウェ! この野郎!」
エンリコは体のベクトルを反転させ、こちらに刺突するようにロッドを構え突進してくる。それを右に勢いごと往なし、すれ違いざまに右の回し蹴りを腹部にお見舞いする。
勢いを相殺したことで、クリーンヒットしたもの吹き飛ぶことのなかったエンリコに対し、体を背側に回転させ左足でのもう一蹴りを顔面にお見舞いした。今度こそ体をくの字に曲げて吹き飛ばされたエンリコは、ジルウェが痺れた手をかばっている付近のドラム缶に激突して倒れる。
「エンリコ!」
「データを返却して、お前たちのボスに二度と私たちに干渉するなと伝えろ。さもなくば──」
お互いに庇い合う二人へとにじり寄る。どちらがデータを持っているのかわからないが、それは深く考えなくともよいことだ。データさえ回収できれば問題ない。回収後はいつも通り撤収するだけなのだから──
「あらあ、それを返されるのはワタシも困るのよねえ、アレク」
「──ッ!」
ほんの一瞬。かすかに耳に入ったノイズに反応し飛び退ると、一瞬前まで自らが立っていた場所には大きな槍のような武具が突き刺さっていた。形状は大昔の十字槍のようだが、無形蒐集士が扱うような武器と同様、特殊な形状記憶合金で作られているらしい。こんなものを所持しているのはただ一人、
「ヴァネッサ、とうとうお前まで出てくるのか。これはいよいよなりふり構っていられないようだな」
「アレク、知らないっていうのは罪なのよお。今あなたたちを取り巻く情勢は複雑に変化しているわあ。院はそれを見ないふりをし続けているけど、もうそろそろ限界なのよお」
「何の話だ。それよりデータは返してもらうぞ」
「ダメよ」
ヴァネッサは、いつもの妖艶で間延びする口調をやめ、スッと目を細める。
「今、あなたにこれを渡してはならないの。あなたはこの子たちと違って頭はイイのだから、きちんと話せばきっとわかってくれると思っていたのだけれど」
「...どういうことだ」
彼女が普段の話し方から、きわめてまじめな話し方に戻るときは、きまってその本懐を打ち明けるときだった。
「それは後できちんと話すとして...まずは、この子たちのお礼をしないとねえ」
ヴァネッサがエンリコに近づくと、彼から記録媒体を受け取る。エンリコはそれを尻のポケットから出していたようで、吹き飛び方が悪ければアレも壊れていたのかもしれないと、ほんの少しだが反省した。ヴァネッサは受け取ったそれを、どういうつもりか彼女の豊満な胸の谷間へと差し込んだ。記録媒体はたしかにそのサイズは小さく、帝国硬貨と同等のサイズとなっているため、あの胸にしまい込むことなど造作もないだろう。
「これを返してほしいなら、ワタシの胸をまさぐることねえ、アレク」
「...下品な。虫唾が走る」
「フフ、そう余裕を保っていられるのも今のうちよおっ!」
先ほど投擲された槍をヴァネッサが構えると、彼女の豊かな体つきからは信じられないほどの速度で私に迫ってくる。かつて彼女が無形蒐集院に在籍していたころ、彼女と腕比べの試合をしたことがあった。結果は私の勝利であったが、単純に、純粋に勝利と呼べるかどうか疑わしい内容であった。要するに、彼女の実力は私と伯仲しているのだ。
長物を持っているのにも関わらず、彼女は無駄のない連撃を繰り出してくる。おそらくあの二人も彼女が指導したのだろう。攻め立て方は彼らのものと似通っていたが、その密度と際どさは桁違いだ。彼女の持つ槍は一般的な十字槍のような形状をしており、刃部分は片側にしか存在しない。彼女はそれを利用し、刃のない先端部分については打撃や跳躍に活用するなど、さらに隙のない連続攻撃を行ってくる。
それらをすべて往なし、受けきっていたが、
「シッ!!」
「ぐっ!?」
その中の一撃をモロに受けてしまい、たまらずよろける。すかさず柄による足払いを掛けられ、ほんの一瞬宙に浮き、背中から着地。肺からほぼすべての空気が押し出され、声にならない声を発して倒れこむ。
わずかな時間天を仰ぐこととなった私の首元に、十字槍の歯が添えられる。見下ろす形の彼女は際どいミニスカートを穿いており、その中のものも見えそうになった。平時なら「ラッキースケベ」などと呼んで差し支えないようなそれも、生命の危機に瀕しているとなると別だということを初めて学んだ瞬間なのかもしれない。
「アレク、私はあなたのことは別に嫌いではなかったのよ。なのに、こんなことになって...残念だわ」
「...ヴァネッサ」
「あなたには悪いけれど、あれは頂いていくわ。抵抗しなければ、命までは奪わない。お願いよ、アレク」
「なあ、ヴァネッサ」
「...あなた、自分の状況をきちんと理解してるのかしらあ」
「ああ、いや。いうべきか悩んだんだが」
「この姿勢だと、パンツが見えるぞ」
「いやッ!?」
わずかな一瞬の、ヴァネッサの赤面を見逃さず、突き立てられた槍を剣で弾くと体勢を立て直した。
「...見た?」
「誰が見るか! バーカ!」
「ッ!! こンのお!!」
恥辱と屈辱から、顔を真っ赤にして全速力で突っ込んでくる。先ほどよりも怒りのあまり攻撃パターンが単純になり、ずいぶん楽にいなすことができた。それでも彼女の刺突のスピードはとても速く正確であり、時々往なしきれなかった刺突が、斬撃が体を掠める。それでもどうにかそれらを捌き切ると、ほんの一瞬訪れたわずかな隙を見逃さずに上段から斬りかかる。
ヴァネッサはそれを槍で受けきるが、勢いは殺しきれずにエンリコとジルウェのいる後方へ弾かれる。体勢自体はかろうじて保っているものの、今の一撃で腕がやられたようだった。びりびりとした左腕を庇いながら槍を構える姿に力は感じられない。
「...相変わらず、嫌らしい攻め方をするのねえ」
「お互い様だろう」
フン、と鼻を鳴らすと。徐々に三人へと歩み寄る。
「さて、そろそろデータを返してもううぞ。それは帝国の未来のために必要なものだ」
「へえ、帝国の未来ねえ。アナタ、それが本気で帝国を良くすると妄信してるのねえ。イケない子だわあ」
「何が言いたい?」
この時の私はきっとものすごく怪訝な顔をしていたことだろう。彼女は弱々しく、しかしそれを気取らせぬかのように続けた。
「アレ如きに人類そのものを時間を越えてどうこうする力はね...ないのよ、アレク」
「なっ...!?」
「無形資産から得られる本質情報、アナタたちはアニマと呼んでいたかしらあ。アレは確かに人類普遍の思想についての研究に用いるのは有意性があるわあ。でも、」
彼女はそこで言葉を切った。
「...ヒトのココロって、もっと複雑なのよ」
思わず面食らってしまい、言葉に詰まる。その言葉に、心当たりがなかったわけではなかった。
「...仮にお前のいうことが正しかったとして、そのこととお前からデータを取り返すことにはなんのつながりもない。さあ、返してもらうぞ」
「強情なのねえ...それなら、ココから自分で引っこ抜いたら返してあげるわあ」
「...俺はそんな破廉恥な罪を犯すつもりはない。普通に渡せ」
「じゃあ嫌よ、自分で抜くまでは絶対に返さないわあ」
「ふーん、じゃあおじさんが貰っていくねェ」
「きゃあッ!?」
まるでそこに初めからいたかのように、突如としてヴァネッサの背後に現れた人物が、彼女の谷間に手を突っ込み、記録媒体を取り出す。たまらず、ヴァネッサが胸を押さえながら背後の人物と距離をとった。
「ノイマンさん...?」
「やあ、アレク。今日は月の綺麗な日だねェ」
廃工場へ進入するときに開けた天井の穴から、翳っていたはずの月が光を放つ。雲の切れ間のようだ。ヴァネッサの背後に立っていた人物へと光が当たり、その人相が分かるようになった。
そこに立っていたのはまぎれもなく、ディーノだった。昼間の草臥れた姿のまま、起き抜けのような気だるさを放っている。先ほどエンリコとジルウェを追跡する際に行っていた緊急連絡によって駆けつけてくれたのだろう。しかし、いつの間にここに現れたのか。戦闘中も絶えず音を聞き続けていたが、彼の音については何も聞こえなかったはずだ。
「すみません、お手を煩わせて。記録媒体については無形蒐集院に運搬して保管するようにしますので──」
「アレク、さっき『おじさんが貰っていくね』って言った通りだよ」
「...へ?」
「これは私が頂いていく、と。そう言ったんだよ」
ディーノが吐き捨てるようにいった。面倒だ、という気持ちを隠す気もないようだ。
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ! あなたも無形蒐集院の一員なら、そのデータがどういうものかぐらいはお判りでしょう?」
「ああ、そうだねェ、」
やれやれ、とばかりにディーノはかぶりを振る。
「少なくとも、」
面倒そうに言葉を紡ぎながら、彼はクイと眼鏡を元の位置に戻す。
「これを応用することで、我々の野望を達成することが可能であるという点で、無形蒐集院などには渡せないんだよねェ」
彼の言っていることが、すぐには理解できなかった。その代わりに先刻の無形蒐集院の屋上での一幕が頭をよぎる。
『──それと、ディーノには気を付けておくんだな』
ショーテイが彼の何をつかんでいたのか、あるいは直感だったのか。今となってはわからないが、ディーノの苦労人の顔に張り付いた愉悦の表情をみて、少なくともこの場において彼が味方ではないことを察する。
「ディーノさん、もし冗談で言っているなら、そろそろやめませんか? 私もあなたに手をあげたくはない...」
彼に問う私の握りこむ手が震える。もしこの場面を漫画にするなら、きっとわなわなという効果音が正しいだろう。得体のしれない恐怖と、彼の言うことに対する怒りをどうにか手に力を籠めることで抑えている。そうしなければ、今にも走り出しそうだった。
「ハァ...あのねェアレク。はっきり言うのもなんだからそうしなかったけどね、」
「これは私が、私の目的のために貰っていくといったんだよ。目障りだ、そこで大人しくしてろよ」
「ディーノォォォォ!!!」
彼がそう告げるやいなや、私は全速力で肉薄した。院内ではディーノは「戦闘している姿を見たことがほとんどない」「一般人並」などの評価を受けている。現に目の前の男は、剣を持ち接近してくる私に対してただ突っ立っているだけだ。彼を無力化することで、もしかすると院から懲罰があるかもしれない。しかし、今この瞬間の彼を袈裟斬りにしないことには、あのデータは返ってきそうもない。
走りながら剣を振りぬく。彼の細い首を一閃するには申し分ない速度で放たれた一撃は、
ディーノの構えた大鎌に阻まれた。
鈍く高い、金属同士の擦れる音。わずかに散る火花が、速度を乗せて放った一撃が止められたことを改めてまざまざと伝えてくる。
「ッ!?」
「アレクってさァ、こういうときにそういう顔をするんだねェ...もっとクールでいけ好かない野郎だと思ってたよ!」
お返しとばかりに、ディーノが首めがけて一薙ぎ。どうにかそれを避けるものの、そこから彼の猛攻撃が始まった。事前に聞いていたのとは違う、彼の獰猛かつ正確な連撃に防戦一方となってしまう。方向もタイミングも、不規則かつ緩急を織り交ぜて苛烈に攻め立ててくるそれは、とても戦闘を得意としていないという噂の立つ人物のそれではない。
「防戦一方だねェ、アレク!」
相手の獲物が鎌ということもあり、攻撃を防ぐので精一杯になっている。剣と違い、鎌は引っかけて引き裂くのを得意としており、攻撃が正面からくることが少ない。仮に正面の大上段から振り降ろされたとして、そしてそれを剣で受け止めようとしたとして、鎌の先端までは防ぎきれないのである。
しばらくの攻防ののち、わずかな一瞬の隙を利用し大きく後ろへ跳躍した。相手がほぼ無傷なのに対して、こちらは体のあちらこちらを切られており、濃く血が滲んでしまっている。ディーノの愉悦の表情が、今や悪鬼羅刹のように見える。こんなにも、力量差があるのか。
ボロボロになりながらなおも剣を構える私をみて呆れたのか、ひどくつまらなさそうに、
「あァ、もういいか。お前をいたぶるにもそろそろ飽きてきたよ。またそのうちやりあう機会もあるだろうし──」
そういいながら、鎌を仕舞う。胸ポケットから取り出し、タバコに火をつける。余裕がある証拠だ。
「そうだ、ショーテイさんにもよろしく伝えといてくれ」
彼が煙を口から吐くと、その量は普通のたばこの煙の量よりもはるかに多く、軍事用のスモークのように視界のことごとくを遮った。先ほどまで廃工場の中を照らしていた月の光ですら、届かなくなっている。
何も見えない向こう側から、声が響く。
「くたばれこの野郎、ってなァ」
そう言い残すと、ディーノの「音」が聞こえなくなった。逃走。その状況が完全に飲み込めないままデータを奪われ、その夜は幕を閉じることとなる。
◆ ◆ ◆
呆然とする私を他所に、ヴァネッサはエンリコとジルウェに肩を貸しながら立ち上がる。腕の痺れもとれ、ようやくまともに動けるようになったようだ。
「アレク。あなたがこの後どうするつもりかは知らないけれど、少なくともアナタじゃ勝てる相手ではなさそうねえ」
「...ああ」
「今日のところは引き上げるわあ。データもなくなってしまったしい」
大の男を二人庇いながら歩くことができるあたり、彼女の膂力も相当なものだ。しかし、ディーノの力はその線の細さからは想像もつかないほどに強烈だった。彼が誰の差し金で動き、アニマをどうするつもりなのか。少なくとも奪われたデータは私のモノであり、それは取り返さなければならない。
「ねえ、アレク」
「なんだ」
「...いえ、なんでもないわ」
そうつぶやき、配下とともに姿を消した。
翌日。無形蒐集院へ昨晩の事態を報告するとともに、院から新たな特命任務を拝命することとなった。
『アニマを強奪し逃走したディーノ・F・ノイマンの追跡、捕縛ならびにアニマの奪還』
当分は、枕を高くして眠ることも難しいだろう。
~帝国無形蒐集院、帝都北部アパルトメント、帝都北部廃工場跡より~
To be continued…