希望の廻填
Composer : Der3
人は何かいいことが起これば有頂天に浮かれるか、こんなこと続かないと悲観的になる。
人は何かよくないことが起こればもうだめだと絶望するか、雨はいつか止むと前を向く。
つまるところ、人によっては希望があっさり絶望へと変わったり、絶望の果てにこそ希望があったり、
はたまた希望に満ちた世界であったり、その逆であったりと、観測する世界はそれぞれ異なるのである。
例えばあの少女を見てみよう。
どこにでもいそうなものだが、この後を「目をそらさずに」見てほしい。
見ての通り、たった今少女には「よくない」ことが起こった。
ただその「よくない」というのは私たちから見た一方的な観測でしかない。
例えば、今遠くに吹っ飛んでいったのは親でもなんでもないのかもしれない。
そうなると、少女の目の前に広がる光景は「よくない」が、本当の親に愛される機会を得られた、と見て、彼女は少しずつ笑顔になるのかもしれない。
例えば、今少女を守るように吹っ飛ばした人物こそが、この後少女に絶望を齎すかもしれない。
吹っ飛ばされたのは本当の親で、さらに言えば愛されて育ってきた少女は今まで幸せだったのかもしれない。
その幸せは、そこの壁のシミになってしまったのかもしれない。
だから、私たちがどう観測したとて、それは私たちがそう「観測した」だけであって、おおよそまるきり同じ観測はないだろう。そしてそれを無数に集めた場合、はたして同じ「観測」結果は生まれるのだろうか。
りんごがひとりでに落ちていくような普遍的原理でなく、人間の行動、情動を含めた「未知性」を考慮した「観測」は、その「未知性」が故に爆発的にその結果を増やすことになる。
そして、増えていく「未知性」による「観測」結果の集まりがやがて形を為すと、それは「世界」と呼んで相違ないものになる。
同じ色でも違う色に見えたり、同じ言葉でも違う意味になったり、同じしぐさでも好意にも悪意にも変わったりするのだから、より形のない人の情動や感情、もしくはその人の「世界」によって、一つの物事が幾通りにも変化し、そしてそれがさらに「世界」を構成していくことでさらに別の「世界」が生まれていく。
では、彼女の「世界」をまるきり知るにはどうすれば良いか?
彼女に「なれば」良いのだが、しかしそれは容易ではない。
「なろう」とした時点で、彼女とは違うのだ。
近づきはするものの、完全に一致しうることはないだろう。
そして、あえてこの上さらに同じ質問にお答えするならば、「わからない」というのが誠実な回答となるだろう。
そもそも私とあなた達は違う「世界」の元で、慣用句的な意味合いではなくそのままの意味で、まさしく生きている。
これを更に違う人物の「世界」にしようというのなら、それは彼女と同じ「観測」をした気になるかもしれない程度の確度しか担保することはできない。
貴方というわからないものを更に別のわからないものにしてしまって、それらを全てわかるようにできるのは、「世界」を壊して渡るだとか、「世界」そのものをデータ化することのできる存在のような、どこか抽象的なもので、どこか超常的なものでないときっと不可能であろう。
―帝国暦20XX/03/07、ヨハン教授登壇「世界はいくつ存在するか」にて、ある学生からの質問の回答より引用