ダイヤモンドダスト
Composer : zEnsEn
「……ある男がな、レストランでウミガメのスープを飲んだのさ。……でなあ、問題はここからだ。男はレストランを去った後、自殺しちまった。なんでだと思う?」
「なんだよ、今度撮る映画のネタか? 監督さん」
「……バカ言え。単純に、クイズを出しているだけだぜ」
しわがれた男の声は、なんだか元気がない。外傷はないのに、身体中の活気はどんどん溶け出して、消えてしまうようだった。
ランタンだけが灯る洞窟の中、少しでも体温を保とうと、アレクはシュラフに潜り込む。
外は酷い猛吹雪。ひゅうひゅうと風の音が止まず、雪か氷かも分からぬ塊が水平に打ち付ける。まさに白い闇。
とてもじゃないが、外に出るのは自殺行為。山の気候は、まだアレクらを外に出すつもりはないらしい。今日で何日が立ったのやら……。五日までは数えていたが、もう忘れてしまった。
大学の映像研究会のメンバーで、最後の冬山キャンプをする予定だった。そこまでは良い。大学最後の冬だからと、吹雪の予報を無視して決行したのが間違いだった。
今はロイと二人。共にシュラフに閉じこもってぐったりとしている。
ランタンの火も段々と勢いを失っていた。オイル式だから、一酸化炭素中毒を防ぐために入口付近に置くしかないのだった。強い風が吹けば倒れてしまいそうだ。
別行動を取った二人は、大丈夫なのだろうか。
「おい、何か質問しろよ。静かになっちまうだろうがよ」
アレクの思考が遮られる。現実に目を向けても気が滅入るだけだった。少しでもこの状況を忘れようと、クイズを出し合っていた最中だったのだ。今は会話に集中しなければ。
「ああ、答えなら知ってるよ。有名なクイズじゃないか。ウミガメのスープまんまだなんて」
「まあ落ち着け。クイズの出題側っていうのは、都合がいいもんさ。『ですが』といえば、状況は覆せる」
「唐突なパラレルは反則だよ。それに『ですが』って言うくらいなら、問題同士に何かしらの対応はつけないといけない。さっきのウミガメのスープとは、何か関連あるのか?」
「こまけぇことは良いんだ。こんな時までお前は脚本家気取りか。今は楽しむことが先決だぜ」
「そのセリフ、監督を目指す人間とは思えないね」
ロイが咳き込む。こいつはカンパンだの缶詰だの、隠れて自分だけの保存食を持ってきたと言っていた。閉じ込められた当初は、カンパンの缶を渡してくれた程だ。栄養失調になるとは思えないのだが。
「ゴホッ……水、水」
ロイが起き上がり、うつ伏せになる。薄いゴムに貯まったお湯へとストローを刺し、啜る。
まあ、避妊具にこんな使い方があるとは知らなかった。機能性だけ考えれば納得はするのだが……。モノとしてはよく伸びる丈夫なゴムなのだし、水を通すはずがない。雑学もたまには役に立つものだ。
ロイはサバイバル術に長けていた。こいつがいなかったら、いつ死んでいたか分からない。
「じゃあ問題の続きだぜ。四人の男たちは山で吹雪に遭い洞窟で寒さを凌ぐことにした。しかし吹雪が晴れる気配はない。食料が尽きかけた時、四人のうち二人は危険を承知で下山を決行。残された二人は何日も待ったが、助けが来る様子はない」
「今の俺たちそのものじゃないか。現実を忘れようって言ったのは誰だ」
「まあよく聞けよ。ここからが問題なんだから。こんな酷い状況にもかかわらず、洞窟に残された男のうち一方の男の気分は、実に晴れやかだった。何故だと思う?」
「それが問題か」
アレクの気分は晴れやかであるはずがない。それは、自分が一番よく知っている。
――だとすれば、晴れやかなのはロイの方。
「一体何がそんなにご機嫌なんだよ」
「イェスかノーで答えられる質問しか答えないぜ」
あくまでこいつはクイズを続ける気らしい。
「だったら、今、お前の気分は晴れやかなのか?」
「イェスだ」
臆することのない、即答だった。
「気でも狂ったか?」
「ノーだ。非常に理性的かつ合理的な理由で、晴れやかなんだ」
「どうした、助かる前兆でも見えたのか?」
「……答えられないな。イェスであり、ノーである。ノー寄りだとは思うが」
「これは確認なんだが、嘘はないな? 奇問とか悪問の類じゃないよな?」
「お前とのゲームだ。そんなつまんねえことしねえよ」
その後も何度か質問をしたが、それらしい解答は見つけられない。だが、イェスかノーか、そのどちらとも言えないか、ロイはすぐに返答した。ロイの中で答えは決まっているのだろう。
質問を重ねても、答えを導き出すことはできなかった。
「……ダメだ。降参だよ。ヒントか答えか、教えてくれ」
すると、ロイは言った。
「仕方ないな。じゃあ一つだけ、キーワードを出してやんよ。キャシーだ」
それは、今アレクが一番逢いたい人の名だ。
映像研究会の紅一点、主演女優として、これまでアレクらの撮影に付き合ってくれた。交流を深めるうちに、遂には夜を共にしてしまった。
そして、このキャンプが終われば、俺とキャシーは――。
正直にいって、今回のキャンプに風邪を引いて休んでいたのは僥倖だろう。
「キャシーは関係ないだろ。今ここにいないじゃないか。巻き込まれなくて良かったとか、そういう類の安心でも感じているのか?」
「まあ、それに関しては本当に良かったと思ってるさ。結婚目前のカップルがこんなところでのたれ死んじゃいけねえよ。まあ、それが問題の答えではないけどな」
「……ああ。確かに俺は、なんとしてでも生還したい。キャシーのことを考えると死んでも死にきれない。こんなところで死んでたまるか。だけどな……」
それはそれ、これはこれだ。
「お前らは俺に優しすぎる。だから時々申し訳なくなるよ。命は平等だ。俺を生かす為だけに、お前らの命を危険に晒すなんて御免だ」
俺らの中でアレクだけは死亡フラグがビンビンだからな――。
そう言って、アレク以外の三人は結託してアレクから危険を遠ざけた。危険な仕事は引き受けてくれた。カンパンを分けてくれたのだって、そういうロイの心遣いからなのだろう。
先に洞窟を出た二人を思い出す。食料が尽きかけ、途方に暮れていた頃だった。アレクが目覚めると、二人の姿が消えていたのだ。
話はロイから聞いた。食料が尽きかけてマズいと思った二人は、一か八か別行動することにしたのだとか。洞窟を出て行って、体力が尽きるまで一直線に山を降り続けるらしい。
二人が下山を決断するまでの間、ロイが送り届ける間、アレクは外にすら出ていない。
ただ眠っていただけだ。
「――死亡フラグを抱えているってだけなら、俺だけじゃないだろ。俺たちはもうすぐ社会に出る。お前らにも幸せは控えているんだから」
そもそも死亡フラグとは、定番化してしまった演出をからかった表現だ。
例えば「俺、この戦争が終わったら結婚するんだ」なんていうセリフ。結婚という幸せを目前にした兵士に限って、映画では命を失うものなのだ。その幸せと不幸のギャップが大きな悲劇を生み、観客の心を釘付けにする。映画のフォールポイントで多用される定番の展開。
だがアレクは、脚本を書いていてこんなことも思うのだ。現代においてもこの手法は通用するのだろうか、そもそも最高の幸せとは結婚なのだろうかと。そもそも結婚は、幸せなイベントなのだろうか。夢や成功を手に入れるというのが、個人の最高の幸せではないかと。
「……俺はバカやってたけど、あの二人は就職が決まったろ。小道具のジョーは大企業から内定が来た。カメラのニコラスは小さなスタジオから声が掛かって、好きなだけカメラ回し放題だ。ロイだって、まだ夢を追えている状況じゃないか。結婚は確かに幸せの象徴だが、人生の墓場とも言うだろ。俺に言わせれば、俺なんかよりお前らの方が将来バラ色だよ」
そうだ。幸せを目前に控えているのは、何もアレクだけじゃない。
一人こっそり抱えていた想いを曝け出すと、ロイはへへっと笑った。
「アレクの言う通りさ。あいつらはあいつらなりに、いっちょ前に幸せを掴もうとしてたとこだったんだぜ。死亡フラグが立ってたのは、実はあいつらの方だったのさ」
ロイの深いため息が聞こえた。呼吸が荒いのだろうか。
アレクは想いをぶちまけ続ける。
「……正直な話。結婚することになった直接の原因は、俺の不注意だよ。責任は取る。キャシーと一緒に実家に帰って、適当な肉体労働で稼ぐよ。そんでさ、一日の仕事が終わって家に帰ったら……。もう、話を書く体力は……残ってないのさ」
何故だろう。アレクの視界は滲んでいる。今はそんな余裕はないはずなのに。
「なんか想像できるぜ。アレクは、あの子のことが本当に好きなんだな……ゴホッ」
ロイが再び咳き込んだ。お腹を押さえ、苦悶の表情を見せる。
「我慢しなくて良いから、遠慮せず食ってくれよ。今言った通り、俺にとってはお前の命も大事なんだ。なあロイ、保存食は残ってるか?」
「ゲホッ……。あ、ああ、それは、質問ということで、良いのかな? ……だとすれば、答えは、ノー、さ……」
ノー……ロイははっきりそう言った。
何に対してのノーだ?
保存食は残ってるか、に対してのノーか?
今のロイは、保存食を所持していないというのか?
「ノーだって……? カンパンを渡してくれるくらいには余裕はあったじゃないか」
「あれで最後さ。悪いな、嘘ついちまって。そう言わねえと、アレクは食べてくれねえだろ?」
――なんてことだ。
アレクの背筋に悪寒が走る。いや、それだけじゃない。
――じゃあロイはどうやって、この数日間の飢えをしのいできたのだ?
人は何も食べなくとも、10日程度は生きていられる。ただしそれは適切な環境下においての話だ。適切に水分を摂取し、適切な体温を維持し、通常の生活から食事だけを抜いた場合の理論でしかないのだ。今のような極限状態では、2、3日が関の山。ひたすら体温を奪われるこの状況で、何も食べずに5日以上生きていられるなんてことは、まずあり得ない。それにこの吹雪の中、栄養になる動物が出歩いているなんて奇跡はまずないだろう。
「……ロイ? どういうことだよ。お前はここ数日、どうやって生きてきたんだ?」
いや、アレクの脳内では既に最悪のシナリオが頭をよぎっていた。
あると思わせておいて実はなかった保存食、それでも生きているロイ、そして……二人が下山したはずなのに助けの来ないこの状況……。
仮に、もし山を降りるはずの二人で、ロイが生き伸びていたのだとしたら?
全ての辻褄は合ってしまうのだ。
「……そんな、嘘だ。あり得るか、そんな話」
質問をして確かめることは、憚られた。だってそれは、限りなく正解だと思えたから。
シュラフを脱ぎ捨て、ロイに駆け寄った。寒いとは感じなかった。
ロイは答えない。へへっ、と口元だけで笑っていた。
「未来があったのは俺だけじゃないんだぞ! むしろあいつらの方が将来はバラ色だって、言ったじゃないか。お前だって頷いただろ!」
「あいつらはそれぞれ一人で幸せになろうとした。何も知らない誰かさんに不幸を押し付けておいてな……ゴホッ」
ロイは咳き込むと、お湯を口に含む。
「このゴムも、あいつらの所持品だったさ。……キャシーと関係を持つためのな」
「なんだと?」
理解が追い付かなかった。キャシーはアレクと結婚を決めたはずだ。自分の妻になる女性だ。
「キャシーがそんなことをするはずないだろ!」
「脅して強制的にさ。それはもうひどく一方的なもんだったさ。お前がせっせと脚本を書いている間に、カメラと小道具は遊び呆けてたのさ。あの子にとっては、何も知らないお前といる時間が何より幸せだったんだろうな。でもお前は何も知らないまま、夢を捨てようとしていた。お腹の子だって誰が父親か分かんねえのによ……」
吐き気がした。この極限状況で、出してはいけないものが、どんどん込み上げてくる。
「だから、お前は……」
「ああ、それが許せなかった。あいつらは最低のクズだ。キャシーと、そしてアレクを踏みにじって、それぞれ成功者への道にありつこうとしたんだからな」
ロイの身体は動かないのに、口だけは達者に動いていた。
「遭難したのは完全に事故だぜ。だがこうなってしまった以上、アレクさえ生還できればそれで良いと思った。どっちみちこの山の吹雪で下るなんて、できっこないさ。あいつらはいずれのたれ死んでいたし、山を下ったとしてもあいつらが助けを呼んだかは怪しい。だから俺は背を向けた二人を……」
「もう喋るなよ。身体が冷える」
「――いいや、言わせてくれよ。俺はお前を生かすために、ギリギリまで生きようとしてんだぜ。ただ、俺もアレクも生き続けるには、どうしても死肉を食らわないといけなかった。アレクにまで間違いを犯させるのは違うからな。だから俺はカンパンを渡したんだ。そして俺はいつでもアレクの支えになれるよう、可能な限り生き延びてきた。だがもう限界らしい。もともと俺自身はどうなったって良い。俺は未だ夢も叶わず職にもあり付けず、幸せとは無縁のままだからな。お前を生かすために、俺は全部動けたんだ。俺の心は今、透き通るほどの青天さ」
それが――ロイの用意した問題の答え。
遭難中にもかかわらず心が晴れやかだという、矛盾をはらんだ男の真実。
「俺の知らない裏で、それだけの大罪を……。お前は一人で背負っていたのかよ」
開いた口が塞がらない。これ以上、なんと声を掛ければ良いのか分からない。安直に非難することも素直に感謝することも、間違っている。それだけは分かる。
頭を振り絞り、ロイに掛ける言葉を探す。
「……そんなの、俺も同罪だ。俺はお前から貰った食料で生き延びていた。あれがなけりゃもうとっくに死んでる。だったら俺も実質カニバリストさ」
「はは。アレクならそう言うと思ってたさ。だからさ、考えてたんだよ。アレク、さっき『ですが』の関連性がどうとか言ってたよな……。今考えたんだが、こういうのはどうだ?
ウミガメのスープ、最初の問題の答えは色々パターンがあると思うが、代表的な答えは決まってたよな。
『ウミガメのスープは、航海の遭難を生き延びるため口にした料理のはずだった。だがレストランで食べたその味は全く違うもの。そこで男は気付いた。かつて自分が口にしたものは、仲間だったことに。そして男は罪悪感を覚え、レストランを出て自殺した』
なんて流れさ。俺は正直、この答えに納得がいってないんだよな。そんなしょうもないことで自殺なんて、先に死んじまった仲間たちがあまりに浮かばれねえじゃん……」
ロイは咳を挟んでから、再び震えるように微笑んだ。
「だからさ、アレク。俺に大罪を犯させたことを罪深く感じたとしても、生きてくれよ。幸せな将来を。俺の分まで、なんて言わねえけど、せめてこの山だけは生きて降りてくれ。そして幸せな結婚生活を、頼んだぞ。キャシーを幸せにしてやってくれよ……」
唇をわなわなと震わせながら、ロイは言葉を紡いでいた。
「お前、それを言う為に……」
「……ああ、結婚おめでとう」
アレクはロイの手を握る。この場で偉そうな倫理を語るより、やることがあった。
「流石、監督だな。全ユーフォリアが泣くこと間違いなしだ」
「嬉しいぜ。今度は授賞式のスピーチを考えねえとなあ」
ロイは、最期まで晴れやかな笑顔だった。
翌日。数日間続いたブリザードがウソだったかのように、外は晴れ上がっていた。
小さく音がする。機械の音、モーターの音……ヘリコプターの羽音だ。救助隊がもうそこまで来ている。アレクは一人生きなきゃと、ボロボロの身体に鞭を打って歩いた。
そして、洞窟を出た、その時――。
煌めく一面の銀が、アレクを出迎えた。
足跡一つない滑らかな雪山。白のキャンバス。それだけじゃない。空中に、いくつもの小さな氷が泳いでいた。早朝の太陽を幾重にも反射して、山に振りかけられた宝石たちが一斉に輝いて、凍てつく山に数日越しの朝を告げていた。
ダイヤモンドダスト。それはまさに、大自然の脅威と神秘の全てを閉じ込めたような現象だ。人の都合や醜さなど、どこにもない。汚らわしいものを全て排除した穢れなき大自然の姿が、そこにはあった。
その景色を網膜に刻んで、アレクは足を前に出す。今も帰りを待ちわびているキャシーにどんな声を掛けようか。言葉を探しながら。
~1965年ユーフォリア帝国 雪山・綺麗なものだけが集まってできた氷の結晶から~